メイドとして
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リディア・アシュクロフト研究ノート No.019
【研究テーマ】立場と観察
『同じ景色でも、見る場所が変われば見えるものも変わる。問題を知りたいのなら、一番近くで暮らす人の目線に立つこと』
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『メイドとして貸していただきたい』
手紙の最後に書かれた一文を、リディアは何度も読み返した。
「・・・メイド、ですか?」
「ああ、そうだ」
父はゆっくりと頷く。
「婚約を望まぬのであれば、使用人として迎えたいそうだ」
「伯爵令嬢を、ですか?」
「前代未聞だな」
私の問いかけに、父も苦笑する。そう、普通ならあり得ない話なのだ。貴族令嬢は嫁ぐか、婿を迎えるものだ。他家へ仕えるなど聞いたこともない。
それでもヴァルクレスト公爵は、この提案を書き添えた。それはなぜか。おそらくは、それほど切羽詰まっているのだろう。
「・・・興味深いですね」
リディアはぽつりと呟いた。
「何がだ?」
「使用人としてなら、屋敷の中を自由に歩けます」
リディアは指を一本ずつ立てていく。
「厨房へも行けます」
「洗濯場や倉庫も」
「使用人の皆さんともお話しできます」
「領民の暮らしも近くで見られます」
私の考えを、父は静かに聞いていた。
「婚約者として迎えられたら、皆さん遠慮して本音を話してくださらないと思うんです。」
リディアは真剣だった。
「でも、メイドなら違います」
屋敷で働く人。市場へ通う商人。畑を耕す農夫。その子どもたち。誰とでも自然に話せる。
「問題を知るなら、この立場の方がずっと良いです。机の上だけでは分からないことがありますから」
私の答えに、父は目を細めた。やはり、この子は研究者なのだ。婚約という言葉よりも、「調べられる環境」に心を動かされている。
「・・・ただ」
リディアは少しだけ困ったように笑った。
「私、メイドのお仕事をしたことがありません」
父は吹き出しそうになるのを堪える。
「そこを心配するのか」
「失礼があってはいけませんからね」
貴族令嬢として育ったリディアにとって、使用人の仕事は未知の世界だった。掃除も洗濯も料理も、知識としては知っている。けれど実際に仕事として行ったことはない。
「安心しなさい」
悩む私に父は笑みを浮かべる。
「公爵からも『形式だけで構わない』と聞いている」
「形式だけ?」
「あちらが欲しいのは、お前の知識と考える力だ」
その言葉に、リディアは少しだけ考え込んだ。自分の知識が、本当に役に立つのだろうか。
まだ見ぬ北方で。まだ見ぬ人々のために。そんな不安が、一瞬だけ胸をよぎる。けれど、それ以上に大きかったのは――知らない世界への好奇心だった。
「一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「北方公爵領には、雪が降るのですよね」
「一年の半分近く降っているな」
「川は凍りますか?」
「場所によって、だな」
「湖も?」
「そうだな」
「・・・見てみたいです」
少し間を開けて放たれたその一言に、父は思わず笑った。
「やはりそうなるか」
「本でしか知りませんでした」
リディアは少し恥ずかしそうに笑う。
「実際に見て、触れて、確かめてみたいんです」
机の上に置かれた北方の地図へ視線を向ける。そこには、自分の知らない世界が広がっていた。
「決まりだな」
父は静かに立ち上がる。
「ヴァルクレスト公爵へ返事を書こう」
リディアも立ち上がり、小さく頭を下げた。
「未熟者ではありますが、精一杯努めます」
「それは違うよ、リディア」
父は穏やかに首を振る。
「いつも通りでいい」
「いつも通り、ですか?」
「そうだ」
父は少し間を開けて言葉を発する。
「困っている人を見つけたら、お前らしく助けてやりなさい」
その言葉に、リディアは柔らかく微笑んだ。
「はい、お父様」
こうして、一人の伯爵令嬢は王国最北の公爵家へ、メイドとして向かうことになった。
まだ誰も知らない、その小さな決断が雪に閉ざされた北方だけでなく、王国中の常識を変える始まりになることを。




