恩人からの手紙
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リディア・アシュクロフト研究ノート No.018
『結果だけを見ても、問題は解決しない。原因を知るためには、まず現場へ行くこと。机の上だけでは、世界は分からない。』
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コン、コン
執務室の扉を叩くと、中から落ち着いた声が返ってきた。
「入りなさい」
「失礼します」
部屋へ入ると、父は執務机ではなく、窓辺に立っていた。窓の外には、秋の陽光を浴びる伯爵領が広がっている。
黄金色に色づいた麦畑。規則正しく並ぶ用水路。新しく建てられた石造りの倉庫。
行き交う領民たちの表情は明るく、荷馬車には収穫した野菜が山のように積まれていた。この景色を見るたび、父は何を思っているのだろう。
「そこへ座りなさい」
「はい」
リディアは勧められるままソファへ腰を下ろした。
ほどなくして執事がお茶を運び、一礼して部屋を出ていく。二人きりになると、父は机の引き出しから一通の封筒を取り出した。
深い紺色の封蝋。刻まれた紋章は、雪原を駆ける白狼。この紋章を、この国で知らない者はいない。
「ヴァルクレスト公爵家、ですか」
リディアは思わず小さく呟いた。
王国最北に広大な領地を持ち、代々王国の北を守ってきた名門。社交界に疎いリディアでも、その名くらいは知っている。
「この手紙は、今朝届いたものではない」
私を真っ直ぐに見つめて、父は静かに言った。
「これは三日前に届いた手紙だ」
「では、なぜ今なのですか?」
「私自身、どう答えるべきか迷っていたからだ」
父にしては珍しいことだった。父は領主として決断が早い。そんな父が三日も悩むなど、よほどの内容なのだろう。
「読んでみなさい」
封を切った手紙には、力強くも整った文字が並んでいた。
『友よ。このような手紙を書く日が来るとは思わなかった。北方は限界だ。私一人の力では、領民を守り切れない。どうか、お前の娘を貸してほしい』
私はゆっくりと読み終え、そっと便箋を畳んだ。
「なんと言いますか、ずいぶんと率直なお手紙ですね」
「昔から遠回しな男ではない」
父は苦笑しながら、頬を小さく掻いた。
「私の命の恩人でもある」
「命の恩人、ですか」
「そうだ」
父は遠い昔を思い出すように目を細めた。
「まだ私が若い騎士だった頃、北方で魔物討伐に参加したことがあった」
父が北方で命を落としかけた話は、幼い頃に母から何度も聞かされた。確か、その年の冬は百年に一度と呼ばれるほど厳しかったらしい。
吹雪に部隊は分断され、多くの仲間を失った。そしてギルバート自身も、雪の谷へ追い詰められた。
「その時、私は死を覚悟した」
静かな声だった。噛み締めるように、一言一言丁寧に紡がれていく。
「その時助けてくれたのが、当時のヴァルクレスト公爵だ」
雪を切り裂くように現れた騎士たち。激しくなびく白狼の旗。凍える風の中で響いた号令。その光景は、三十年経った今でも忘れられないという。
「私は借りを返せていないのだ」
父は真っ直ぐに、私を見る。
「だからこそ、今度は私が応える番だ」
覚悟を決めた瞳に、私は静かに頷いた。とても、父らしいと思ったのだ。恩を受けた相手を、何十年経っても忘れない。だからこそ、領民からも慕われるのだ。そんな父の頼みなら断れない。
しかし、一つ気になったことがある。
「ですが、お父様」
「うむ」
「私に何を望まれているのでしょう?」
「それが問題なのだ」
顔を顰めた父は、もう一枚の紙を私に差し出した。そこには北方公爵領の現状が細かく記されていた。
人口の減少。農作物の不作。物流の停滞。魔物被害の増加。赤字続きの財政。
そして最後の一文。
『解決の糸口は、未だ掴めず』
私の指が、その一文で止まる。
「・・・興味深いですね」
私の一言に、父は笑みを浮かべた。
「やはり、そこを見るか」
「原因が分からないということは、まだ調べる余地があるということです」
私は書類を見つめたまま続ける。
「原因が一つなのか、複数なのかも分かりません。気候なのか、土壌なのか、人なのか、それとも魔法なのか」
独り言のように仮説を並べ始める私を見て、父は確信したという。
――この子なら、きっと北方を諦めない、と。
他の者が「終わった領地」と切り捨てても、この子だけは違う。分からないことを前にした時、恐れるのではなく、目を輝かせるのだから、と。
「まだ受けるとは言っておりませんよ?」
顔を上げた私は、少しだけ頬を膨らませる。
「その顔は、もう半分受ける気だろう」
「・・・そんなに分かりやすいですか?」
「父親だからな」
部屋に、小さな笑い声が響いた。
ギルバートはリディアの様子を見つめ、小さく息を吐いた。
「・・・実は、まだ話がある」
「まだ、ですか?」
「ああ」
父は机の引き出しから、もう一通の書類を取り出した。今度は手紙ではない。王国貴族院へ提出する正式な書式だった。
私は差し出された書類に目を通し、その場で固まる。
「・・・婚約?」
思わず漏れた声に、父は苦笑した。
「ヴァルクレスト公爵家嫡男、レオンハルト殿との婚約を前提に迎えたいそうだ」
しばらく沈黙が続く。私は書類をもう一度読み返した。読み返して。さらに、もう一度読み返し、そして顔を上げた。
「お断りします」
あまりにもハッキリとした拒絶だった。私の答えに父は思わず笑ってしまう。
「理由を聞いてもいいかい?」
「自由に調査ができなくなります」
「・・・それだけか?」
「婚約者として迎えられれば、屋敷の仕事も領地の視察も制限されます」
私は真面目な顔で、指折り数える。
「厨房も見たいですし」
「うむ」
「鍛冶場も」
「・・・うむ」
「農地も」
「そ、そうだな」
「家畜小屋も。」
「・・・」
「あと、雪国特有の生活魔法も研究したいです」
そこまで聞くと、父は額に手を当てた。
「レオンハルト殿のことは考えないのか?」
「まだお会いしたこともありませんから」
私はきっぱりと言い切る。
「そんなことよりも、原因不明の領地問題の方が気になります」
父は苦笑しながら椅子へ深く腰掛けた。
――やはり、この子は変わらない。
困っている人より先に。名門公爵家より先に。婚約話より先に。未知の問題へ興味を示す。
それがリディア・アシュクロフトなのだ。
「・・・そう言うと思っていた」
父は机の上へ、最後の一通を置いた。
「だから、ヴァルクレスト公爵も、もう一つ提案を寄越している」
私は首を傾げる。
そこに書かれていた一文は。
『婚約を望まれぬのであれば、一人のメイドとして貸していただきたい』
リディアの瞳が、大きく見開かれた。




