第三話 曇天開けて Ⅳ
果たして、つかの間の安息は、そう長くは続かなかった。小さな地震が起きたかのような揺れで、浅い眠りから目を覚ました私に、苦い顔をして菜緒さんが告げて来た。
「…敵襲、です。」
小屋の中が、にわかに騒がしくなる。不知火は、刀を抜いくと、すぐさまここを飛び出していった。襲撃に合わせ、不知火には時間を稼いでもらう手筈になっている。
ここから街までは、徒歩で一時間、急げばもう少し早く辿り着ける。到着次第、街の人々に助けを求め、可能であればここに戻ってくる。それが、私たちが立てることのできた唯一の作戦、その全体像だ。
それだけの時間を一人で、と頼むのは心苦しいことだったが、しかし他にどうすることもできなかった。これだけの、私を含む力ない人々を逃がすには、誰かがその分の時間を稼がねばならなかった。
そして、ここでそれができるのは、不知火ただ一人のみだった。彼も、それを知っていて、自分から名乗りを上げた。
何もできない私たちでは、それを止めることもままならず、こうして実行の時はきた。あとは彼の無事を祈って、全力で逃げること。それ以外にできることは残っていなかった。
暫く後、外で力が激しくぶつかり合う音が聞こえた。それを合図に、私と菜緒さんの先導で、皆が一斉に逃げ始める。一度列を外れ、菜緒さんと一緒に殿につく。
振り返ると、さほど遠くない場所で、不知火と、あの男が、戦闘を繰り広げていた。刀とナイフが、幾度もぶつかり合っている。
それを確認して、小さく祈る。それから、皆の後をついて、一目散に小屋をあとに
「…っ」
断絶。
突然に、何かが起こり、意識が飛んだ。それだけがわかる。身体が痛む。目を開くと、ぼんやりとした視界に、曇り空と地面とが見えて、どうやら、自分は地に仰向けで倒れているらしいことを認識する。
朦朧としたまま首をめぐらすと、菜緒さんが倒れているのが見えた。いや、それだけではない。脱出を試みていた他の人々も、皆、様々な体勢で地面に投げ出されている。
そして、そんな私を覆うように迫る影。
「…っ―!」
とっさに動けたのは奇跡だった。ほんの少し身を捩ったすぐ横を、何かが音を立てて通り過ぎ、地を叩いた。
それでも衝撃までは回避できず、振動と風圧で吹き飛ばされる。
「っ、あっ…!」
背中を打つ。その痛みで遠のきそうな意識を、ここで気を失えば即ち死だ、という本能で必死に繋ぎ止める。
「…っ…」
そこにあったのは…いや、居たのは、宿を去るときに見かけた、あの黒い球体。いや、今それは正に、周囲の土や岩石を巻き上げて、その体を造り上げていくところであった。
今、地を穿ったのは、その腕。形成しながら、ほぼ腕なりに放たれたというのに、その一撃はあまりに重い。その衝撃は自身にも戻ってきているようで、岩石でできた腕の所々に亀裂が入っていたり、弾け飛んでいたりしたが、それは動揺した様子もなく、そのうちに周囲から勝手に土砂が集まっては破損部位を修復していく。
「…滅茶苦茶、な…」
魔法。その言葉がまた脳裏をよぎる。きっとこれも、魔法のなせる業。人知を超えたことの連続に、もういい加減心が折れそうだった。
それでも、襲われてはひとたまりもない。あちこちの痛みで体は上手く動かなかったが、それでも腕をついて起き上がる。
「…っ、皆さん、落ち着いて…!離れないで、ください…!」
菜緒さんも、身体を起こしているところだった。それだけでなく、周りの状況を見て、被害を出さぬために、呆然としている人々へと指示を出している。
彼らも、それで我に返ったか、あるいは混乱したまま言われるままに動いたのか、集まってくる。
しかし、一方で、あの土の塊…アレも、少しずつ近寄ってくる。
「…菜緒、さん…!」
もう一度傍らの菜緒さんを見やる。しかし彼女は目を閉じて、静止している。
と、不意に、その指先が光りだす。そうなるや否や、眼を開いた彼女が、すさまじい速度で空中に何かを描き出す。
「…っ、不知火さん!」
まるで、それが最初から打ち合わせされていたように。
大きな剣戟の音がした。そして―弾かれたように大きく跳んできた不知火が、菜緒さんの描いた紋様に手を叩きつけるようにしながら叫ぶ。
「―結界!」
ふ、と、空気の切り替わるような感覚。遅れて、土塊の一体がその太い拳を振り上げ―しかし、私たちから離れた場所で、何かにぶつかって、弾かれたようにして逸れていった。
「―皆さん、固まってください!私たちが凌ぎます!」
その言葉に、恐怖に震えていた人々は皆、考える間もなく菜緒さんのもとへ集まった。
恐慌の兆しが薄れていくのを感じた。
―結界。その単語には聞き覚えがあった。
そういえば、菜緒さんが宿の周辺に結界を張り巡らせていたらしい、ということを聞いた記憶がある。そうすることで、悪意ある者をできるだけ遠ざけるのだと。
それがあったおかげで、例の男が宿へと侵入する速度が遅まり、今もこうして私たちを守っているのだ。
ほんの少しだけ落ち着いた私は、結界があるであろう場所を超え、周囲の土塊たちを見渡す。まだ、数はさほど多くない。ならばあとは、隙を見て不知火に切り込んでもらうことができれば―ひょっとすると、この包囲網を突破することができるかもしれない。
不知火と、傍らの菜緒さんの様子を伺う。菜緒さんは額に汗を浮かべながらも何かに集中しているようで、視線を揺らさない。不知火も傍で紋様に手を当てながら、眼光鋭く前を睨んでいる。
「―随分と、手こずらせてくれたな。」
やがて、冷酷な声が、静寂を切り裂く。
その一瞬。垣根のように連なる土塊たちを割って出てきた彼は、全ての視線の先に居た。誰もが固唾をのんで様子を伺う中、男は粗雑な手つきで帽子を掻き上げる。陰りだした月光の下で、以前見かけたより遥かに紅く、冷たく光る瞳が私たちを静かに見遣っていた。
「―っ」
不知火は、答えない。
「…一応、言っておくか…動くな。状況次第では、殺すことも厭わない。」
「…一体、何の目的で、…私たちを追うんですか」
そう尋ねたのは、菜緒さんだった。
「知らない、とは言わせん。…星詠みが動いたのなら、必然、『巫女』絡み。そして、我らは、その『巫女』に用がある。」
巫女。まただ。また彼はそう言った。
「…生憎ですが…存じませんね」
そういう菜緒さんの表情は、どこか苦し紛れに見えた。もしかすると、その『巫女』とは何のことか、知っているのかもしれない。
「…とぼけるか。…まぁいい。それならそれで、全員、殺すだけだ。」
「…言っておきますが、私に意識がある限り、皆さんには指一本触れさせませんよ。」
強気な菜緒さんの言葉。不知火も彼を睨む視線を外すことはない。
だが、それを受けて―男は、不敵に微笑んだ。
「そうだな。…意識がある間、はな。…だが…ふ、くく…」
そこで言葉を切り、手に口を当て、うつむき、肩を震わせる。
彼の言い回しに、違和感を覚えた。何か、大切なことを忘れている気がする。
―そして、顔を上げた彼は、嘲りの表情を浮かべていた。
「―我が名は、黒曜。教えてやろう、愚かな弱者ども。その結界を支えているのは、そこの女ではなく、奥の男だ。
―そして、結界が破られたとき、術者がどうなるか。」
―そうだ。宿に彼が侵入したとき、菜緒さんは結界が破られたと言っていた。そして、その時、菜緒さんは…倒れていた。しばらくは、動くのもままならないくらい、衰弱していた。
そして、今、術者は、不知火だと、男―黒曜が、そう言った。だとしたら。
嫌な予感が走る。それでも考えるのを止めることができなかった。
もし、術者が不知火だとするなら―黒曜が結界を破った時、不知火は。
(―ッ!)
「な、菜緒さん!」
それを、確かめるために、否定するために、投げかける問い。私だけでない。周囲の人皆が、その答えに注目していた。
が、菜緒さんは、返答をしなかった。
「…菜緒、さん…?」
「―逃げてください。」
やがて、紡がれた言葉は―期待していたそれとは異なる、短くも絶望的なものだった。
「逃げて、下さい。私が、結界を、維持できているうちに。不知火さんの、魔力が、尽きないうちに、できるだけ、遠くへ。」
「甘い、な。逃がすと思うか。…十、待ってやろう。『巫女』よ。その間に名乗り出れば、他の奴らは見逃してやる。―十」
無慈悲に開始されるカウントダウン。巫女、というのが誰かは知らないが、早く名乗り出てくれ、と、一瞬思った。
「―九」
そして、そんな風に、他人を見殺しにしてでも自分を守ろうとする思考に、怖気がさした。
「―八」
周囲の人たちが必死に逃げ出す。絡まりあい、押しのけあいながら、かけていく人々。誰もが皆、他人を押しのけてでも生き延びようと必死の形相をしていた。
そんな中、私は一人動けずにいた。
「―七」
弱い。私は弱い。それ以上に、人間は弱い。最終的には、何をしてでも生き残ろうとする。
その弱さゆえに、競うことをやめられない。誰かを排斥しようとする。傷つけようとする。
「―六」
「氷雨さん!」
「氷雨、何してる、早く逃げろ!」
菜緒さんと、不知火の声。
「―五」
そうだ、私は。
私は、変わらねばならないのだ。
『運命』という言葉で、片付けようとしていた、私の過去。努力を認められず、友を失い、居場所を失った。だが、それはほんの少しの自分の強さで、乗り越えられたのではないか。
こちらの世界へ渡った時、そんな疑念を抱かなかったか。
「―四」
―運命を、変える。
それは、辛い環境など、乗り越えられるよう、強くなる、という意味。
その覚悟もせずに、私はここに来たのか…だとしたら、そこに意味はあるのか。
「―三」
また、逃げるのか。そこに天照がいないから。そこに倒せない敵がいるから。
眼前の土塊が、拳を振り上げる。
わからなかった。何が正しいのか、何が間違いか。自分は何を考えているのか。
「―氷雨、さん?」
「―ほう。」
ゆっくりと動いていた、その土塊が、動きを止めた。それを打ったのは、拳大の、石。
―なにか、わからないままに、私が投じたその石で。




