第三話 曇天開けて Ⅲ
三個目の扉を開けると、そこは完全に宿の裏。そして、そう遠くない位置に森が広がっていた。足跡が残っているのを見ると、客たちの大半は、姿を隠そうとそこへ逃げ込んだようだった。
私もそちらへ行こうとして…そこで、菜緒さんが険しい顔をしているのを目にして足を止めた。
「逃げた先は、森、ですか…」
その呟きで気づいた。
木を隠すなら森の中、という言葉がある。あるモノを隠すときは、同種のモノの中に紛らせるのが一番良いのだ。例えば、手紙。引き出しの中入れたり、鍵付きの箱に保管されているのであれば、本気で探せばすぐに見つかる。しかし、例えば封筒や手紙、書類などを山積みした中にさり気なく紛れていたら?探すのには時間がかかるし、大事なものならここにあるわけがない、と考えて探すことすら諦める人もいる。
なら、人は、どこに隠れればいいか。人が沢山いる場所…つまり、街だ。中央街までは離れているといってもほんの数分の距離だし、夜と言えど誰もいないということはないだろう。あれだけの魔法を使う男を街に入れるのは少し怖いが、しかし派手にやれば注目を浴びる。この世界の人々が一般にどれだけ魔法を使えるのかはわからないが、それでも数の力は強い。上手くやりさえすれば大した被害は出ないだろう。
少し考えれば、わかることだ。けれど。
(…それさえも、考えられなかった…)
今も。あの男から逃げた今でも。あるいは、逃げたからこそ、思い出すと足が震えそうになる。それほど、圧倒的な脅威に晒されるというのは、非日常の出来事なのだ。だから、どう対処するのが適切か、なんて考えることすらできない。私だって。
きゅ、と肩に置かれた菜緒さんの手に力が入る。
この人がいなければ、きっと私も錯乱して逃げまどっていたのだろう。けれど、今、私には二人分の責任がある。
(落ち着いて…)
深呼吸。気を抜けば震えあがってしまいそうな精神を叱咤する。
「これから、どうすればいい?」
「とりあえず、私たちも彼らを追いましょう…こうなっては、私達だけ逃げるというわけにもいきませんし、そうしてしまえば不知火さんと合流するのも難しくなります。その方が、かえって危険ですから…」
大分呼吸が戻ってきた菜緒さんの言葉に頷く。
「…この先に、有事の際に備えて作られた小屋があります。そこまで逃げられれば、数時間は隠れられるはず…」
「わかったわ。しっかりつかまってて。」
「ごめんなさい、ご迷惑をおかけします…いざとなったら、私を置いて逃げてくださいね?」
「菜緒さんがいなかったら、誰がお客さんたちの誘導をするのよ?…それに、正直なところ、私も怖いから、こうして一緒にいてもらえるだけで、助かってるわ。だから謝らないで。」
返事は待たない。日の沈んだ山は、木々たちの陰によってほぼ真っ暗、といった状態だった。それでも、方向感覚と、そして途中からは復活した菜緒さんの導きにも期待しながら、一歩一歩、慎重に踏み入っていった。
森の中には、菜緒さんか宿の人がつけたらしく、木の幹などに目印がつけてある場所がいくつもあった。それを頼りに、時々転びそうになりながらも進んでいくと、やがて視界が開ける。そこにあったのは、小屋というよりはちょっとしたログハウスに近いもの。屋根までの高さは周りの木々と大した差はなく、周囲からは見えづらくなっているようだ。…やけにきっちりしすぎている気がするけど、どうしてただの宿がこんなものを持っているのだろうか。
そしてその柱によりかかったり、近くに座り込んだりして、宿にいた客たちが集まっていた。辺りには木以外の何もないので、目印を求めて多少人の手が入ったこの場所へ集まってくるのかもしれない。
とにかく、こうなると、他の客を探し求めて歩き回る必要もなさそうだ。あとは不知火を待つだけ。
夜は更けていくばかり。
「…少し、寒いわね。」
その呟きは隣の菜緒さんに向けられたものなのか、そうでないのか、自分でもはっきりしていなかったし、菜緒さんも曖昧に頷いただけだった。
今夜は眠れそうもない。それでもせめて、少しだけでも、自分と、ここに居るみんなが安らげる時間があればいいと、切に願った。
それから程なくして、女性を背負った不知火が合流した。
その時、私と菜緒さんは、客の誘導を終え、保存してあったらしい食料の幾らかを分配していたところだったが、菜緒さんは不知火に気づくとすぐに駆け寄って、女性を床に横たえた。目が閉じているが、胸が微かに上下しているので、寝ているか気絶しているかしているのだろう。そして肝心の傷口はといえば…
私は一瞬様子を伺って後悔した。よくは見えなかったが、裂けたようなそこから何か白いものが覗いていたような気がしたからだ。グロいとかそういう問題じゃない。当然のように応急処置をしている菜緒さんや不知火は、一体どういう経験を今までしてきたのだろうか。
気分が悪くなったので、少し隅で休むことにした。
かわりに、と辺りを見渡すと、他の人たちはうつむいた姿勢で固まっていた。それもそうだ。あれだけのことがあったのだ。恐怖は募っていて当然。私だって…本当は。さっきの女性を見たとき、逃避して忘れようとしていたあの恐怖がまた襲ってきたから。傷口がダメ、という理由もあったけど、それよりも、恐怖と向き合いたくなかった、という理由の方が大きいだろう。
情けない。そう思った。
こんな追い込まれた状況の中で。たった一人で脅威に立ち向かった不知火。たとえ弱っていたとしても、自分にできることを、と動き回る菜緒さん。この二人と行動を共にしていながら、私にできたのは、周りの人と同じく、ただ逃げまどうだけ。
…いや、むしろ。
力のない私がいることで、かえって二人の邪魔をしているのかもしれない。私には、何の力もないし、何をしているわけでもないのだから。
本当に、情けない。そう思うと、なんだかちょっとだけ笑えてくる。
自分を変える、という決意。
それは、あの時天照と契約したことで、同時に自分がひそかに誓ったことでもあった。
自分に向けられる感情も、友達のことも、何一つ自分の力で変えることができなくて。そんな日を繰り返してるうちに、もたらされた死。それに後悔して。
だというのに、結局私には、何もできないのだ。
「氷雨さん」
そんなことを考えていて、知らずのうちに俯けていたらしい顔を、声に気づいて戻す。そこには菜緒さんの顔があった。どうやら手当を終えて戻って来たらしい。
「どうかし…いえ、その、…大丈夫ですか?」
この状況なら、どうもしない、というほうがおかしい、ということを思ってか、言葉を選ぶ菜緒さん。ということは、きっと明らかに暗い顔をしていたのだろう。それ以上心配をかけるわけにはいかない。意識して、笑顔を作ろうとするけれど、どうにもぎこちなくなってしまう。それでもなんとか、言葉を絞り出した。
「え、ええ。大丈夫よ。…菜緒さんこそ、大丈夫?少し前まで、辛そうな顔をしてたけど」
「はい。私の方は、結界魔法が強引に破られた反動みたいなものですから。…あと、あの女性の方も、気絶しているだけで命に別状はなさそうでした。当分、歩くことは難しいでしょうが…」
結界魔法。ということは、彼女も魔法が使える側の一人なのか。そう尋ねると、菜緒さんは「私の魔力は弱いですし、護符とかを使って漸く使えるレベルですけど」と苦笑した。
「あまり効果はないでしょうけど…宿の周りに、防音とか、魔除けとか、そんなことを兼ねて結界を張っていたんです。やっぱり、宿泊される方には安心していただきたいですし」
それであんなふうに倒れてしまうのですから、本末転倒ですけどね、と。そう言って笑う彼女を見て、ああ、この人は強いのだな、と思った。
守るものがあって。守りたい人がいて。彼女にとってそれはあの宿であり、そこに泊まる人であり、…そして、おそらくはそこにいる人々の笑顔なのだ、と思った。彼女は自分のしたことで誰かに喜んでもらえたとき、本当に嬉しそうに笑っていたから。
だから、今もこうして、自分にできることをして回っているのだろう。避難の誘導をしたり、怪我の手当てをしたり、そしておそらく、私だけでなく他の客たちにも声をかけて回っていたのだろう。少しでも、安心させてあげるために。
「氷雨さんも、無理はなさらないでくださいね。…少し、仮眠をとってみてはいかがですか?この後、小屋の周りにはまた結界を張るつもりですし…不知火さんも備えていてくれるようですので」
駄目だ、と言おうとした。それでは、不知火と菜緒さんはいつ休むのだ。いつ来るかも知れぬ敵の来襲に備えて、ただひたすら神経を張りつめさせて。そんなことをさせるわけにはいかない、と。
でも、言葉は出なかった。いや、出せなかった。
何故なら、私には何もできないから。それはきっと周りの人たちも同じで、それ故に頼れるのは不知火と菜緒さんだけで。彼女たちもそれがわかっているから、無理をしようとするのだ。笑顔のまま。
「…ありがとう。でも、眠れるかちょっと心配ね」
結局、そう返すことしかできなくて。それでも、せめて笑顔だけは消さないよう努力した。
それから、二言三言と言葉を交わして、菜緒さんが去った後、改めて周りを見渡す。
寒そうに体を抱くもの。隅で怯えたように丸くなっている人。俯いたままの面々。皆、限界が近いのだろう。それでも、文句を言ったり、暴言を吐いたり、そういったお決まりの展開は、今のところ起きていない。それはきっと、不知火と菜緒さんがいて、今もこうして頑張ってくれているおかげで。
けれど、それもそう長くは続かないだろう。これが長く続けば続くほど、皆の心は消耗して、菜緒さんや不知火にもいつか限界が来る。
だけど、それを回避する手立てもない。結局、いつか訪れる破滅に向けて、ただ待ち続ける事しかできないのだろう。
…いや。
本当に、そうなのだろうか?
ふと、疑問に思う。
できることをしている。菜緒さんの行動を、私はそういう風に見ていた。それを、強い、とも。
私が過去にしてきたこと。周りからの目を無視し続けて、友達との縁もそんなことであっさりと失って。それでもあの時、その手をつかんで、それは余計なことと言われて。
もしかしたら、無意識に、私が考えの外にはじき出しているだけで、私にできる事、というのはあるのではないだろうか。そんなことを、ふと思った。けれども、考えはまとまらない。やはり、疲れている上に、きっとまだ混乱しているのだろう。
壁に、背を預けて、目を閉じた。眠ることはできないかもしれないけど、せめて少しでも休もうと思った。
それでも落ち着かなくて、薄く目を開いたとき。窓から差していた月明かりが少しだけ弱まった。何かが起きたのかもしれない、と思ったけど、どうやら雲が月にかかっただけらしい。
もうこれ以上何かを考えても疲れるだけだろう、と思って、結局もう一度目を閉じた。
夜は、まだ長いようだった。
誤字修正などは後日行う予定です




