第3話 空に浮かぶ巨大な箱
少年が木製の扉を開いた。
その先にあったのは、先ほどの部屋よりもはるかに簡素な部屋だった。
壁はすべて灰色の石で造られており、天井はかなり高い。
部屋の中央には長い木製の机が置かれ、その周囲にはいくつもの椅子が並べられていた。
部屋の隅には、複数のリュックが綺麗に整えられている。
その横には水の入った容器や、布に包まれた食料も置かれていた。
まるで数日間ここで過ごすために準備された場所のようだった。
しかし――ノアの目を引いたのは、それではなかった。
他にも人がいた。
部屋には三人の少女がいた。
一人目は短い青髪の少女で、周囲を注意深く観察するような瞳をしていた。
二人目は、恐らくこの中で最も幼い少女だった。
年齢は十五歳ほどだろうか。
ノアと同じように、闇のように黒い髪を持っている。
三人目は、肩まで流れる長い紫色の髪をした少女だった。
三人は、扉が開いた時には机の周囲に集まっていた。
「おお、じゃあもう見つけたんだね」
黒髪の少女が、机の上に座ったまま笑みを浮かべて言う。
その声を聞いた瞬間、残りの二人も素早く入口へ顔を向けた。
視線が一斉にノアへ集まる。
一瞬、部屋は完全な静寂に包まれた。
ノアは居心地の悪さを感じた。
未だに何も理解できていない。
なぜ自分がこの世界に来たのか。
なぜ自分の身体が以前とは違うのか。
なぜ見覚えのない傷跡が刻まれているのか。
そして、この果てしなく続く石造りの通路は一体何なのか。
考えれば考えるほど、混乱は深まっていった。
(ここは……どこなんだ?)
その疑問が、頭の中で何度も繰り返される。
すると、奇妙な感覚が身体を駆け巡り始めた。
心臓の鼓動が速くなる。
手のひらには汗がにじむ。
なぜかは分からない。
だが、何かがおかしい。
この場所には、何か異常なものがある。
そんな感覚が、ノアの中で強くなっていく。
そして――彼は、さらにあることに気づいた。
全員が、まったく同じ種類の服を身に着けていた。
白を基調とした、簡素な制服のような服。
全員が。
――ただ一人を除いて。
ノアは自分の服へ視線を落とす。
違う。
何もかもが違っていた。
(どうして……俺だけ違うんだ?)
そう考えた瞬間、胸の奥に新たな不安が生まれる。
緊張を隠そうとして、ノアは無理やり笑顔を作った。
そして右手を上げ、不器用に挨拶をする。
「こ、こんにちは……皆さん、元気ですか?」
すぐには誰も返事をしなかった。
三人の少女は、変わらずノアを見つめ続けている。
そして、その作り笑いは次第に耐え難いほど気まずいものになっていった。
――――――
ノアは長い木製の机を挟んで座り、両手で水の入ったグラスを握っていた。
容器を少し動かすたびに、中の液体が静かに揺れる。
その間、初めて会った人たちは小声で何かを話し合っていた。
何を言っているのか、ノアには聞き取れない。
ただ時折、互いに心配そうな視線を交わしていることだけは分かった。
エルフの少女と青髪の少女は、机の端に座っている。
二人とも、とても明るい雰囲気ではなかった。
特にエルフの少女は。
ノアが記憶を失ったことを話してから、彼女はずっと沈んだ様子だった。
視線は机の上に固定されている。
まるで、受け入れたくない何かについて考え続けているように。
部屋の空気は、いつの間にか変わっていた。
重く。
居心地の悪いものに。
ノアは小さく水を飲む。
一口。
もう一口。
そして、さらにもう一口。
――やがて。
ついに、自分へ向けられるすべての視線を感じ取った。
ノアはゆっくりと顔を上げた。
全員が彼を見ていた。
「……え? 俺の顔に何かついてる?」
そう言いながら、ノアはグラスを机の上へ置く。
最初に口を開いたのは、紫色の髪をした少女だった。
「ううん、大丈夫」
彼女は微笑もうとする。
「きっとあなたには辛いことだと思うけど……本当に何も覚えていないの? ノア」
ノアは首を横に振った。
少女は続ける。
「私たちとの冒険も?」
「……冒険?」
「それに……あなたのおかげで、私たちがここまで来たことも覚えてないの?」
ノアの動きが止まった。
「……俺のおかげで?」
そう小さくつぶやきながら、グラスの中の水を見る。
その言葉は、現実味がなかった。
ノア・アーデントは、決して特別な人間ではなかった。
運動で目立ったこともない。
勉強で評価されたこともない。
人気者だったこともない。
誰かに憧れられたこともない。
人生の大半で、自分は役立たずだと思っていた。
何の価値もない人間だと。
それなのに今、目の前の見知らぬ少女は言った。
――ここまで来られたのは、彼のおかげだと。
信じるのは難しかった。
あまりにも難しい。
ノアの視線は、数秒間ずっと水面に向けられていた。
まるで、その中に答えが隠されているのを待っているかのように。
しかし、そこにあったのは何もなかった。
ただ、自分自身の姿だけ。
「俺は……その……」
ゆっくりと顔を上げる。
「ごめん」
「でも……何も覚えてない」
再び、部屋は沈黙に包まれた。
紫色の髪の少女は、少しだけ視線を落とした。
エルフの少女は、机の上で両手を強く握り締める。
そして青髪の少女は、小さくため息をついた。
ノアは、次第に罪悪感を覚え始めていた。
理由すら分からないというのに。
その時、赤髪の騎士が口を開いた。
「じゃあ、一つだけ教えてくれ」
ノアは彼へ顔を向ける。
「お前が最後に覚えていることは何だ?」
「最後に……覚えていること?」
ノアは考え込む。
もちろん覚えている。
雨。
道路。
あの少女。
トラック。
そして、自分が死ぬと思った瞬間。
だが、それを話すわけにはいかなかった。
それは基本中の基本のルールだった。
異世界ものを知る者なら、誰もが理解しているルール。
――決して、自分が別の世界から来たことを明かしてはいけない。
もし信じてもらえなかったら?
もし頭がおかしいと思われたら?
いや。
黙っている方がいい。
(主人公は最初、いつもそれを隠すものだ)
ノアはそう確信していた。
数秒後、ノアは再び皆へ視線を向ける。
そして、わずかな笑みを作った。
「ただ……家に帰る途中だったことしか覚えてない」
「そうか……」
赤髪の騎士は小さく息を吐く。
「なら、また最初から説明するしかなさそうだな」
彼は椅子に座り直し、ノアを見る。
「俺の名前はダリウス。ただのダリウスだ」
紫髪の少女が手を上げる。
「私はロキシー」
黒髪の少女は明るく笑った。
「私の名前はメイン!」
ノアは何度も頷きながら、名前を覚えようとする。
これで残るのは二人だけだった。
エルフの少女。
そして、青髪の少女。
全員の視線が、二人へ向けられた。
二人とも、ノアの記憶喪失という知らせに動揺したままだったが、それでも自己紹介を始めた。
「わ、私の名前は……ルーシー。ただのルーシーよ」
エルフの少女は笑おうとした。
だが、その表情にはまだ不安が残っていた。
最後に、青髪の少女が口を開く。
「私はレベッカ」
「分かった」
ノアは頷きながら、名前を確認する。
「ダリウス、ロキシー、メイン、ルーシー、そしてレベッカ……」
その時。
突然、拍手の音が響いた。
全員が音の方へ顔を向ける。
ロキシーが立ち上がっていた。
少女は腕を組み、真剣な表情を浮かべる。
「よし」
彼女はノアを真っ直ぐ見つめた。
「今の状況が簡単に信じられないことは分かってる」
「かなり信じられません」
「でも、今はそれを気にしている場合じゃない」
ロキシーは手のひらで机を軽く叩いた。
「私たちは、目的を続行する」
ノアの目が輝いた。
目的。
任務。
それはまさに、冒険そのものに聞こえた。
「あ、あの……ロキシー。悪いけど……俺たちの目的って何なんだ?」
ノアは落ち着いているように見せようとする。
――しかし、完全に失敗していた。
期待と興奮が、表情から隠しきれていない。
ロキシーは小さくため息をつく。
「そうだった。あなたは何も覚えてないんだったね」
彼女は一度咳払いをする。
「私たちは今、グラン・キューブ・ボイエルの内部にいる」
ノアは首を傾げた。
その名前を聞くのは初めてだった。
「私たちの目的は、五階層へ到達すること」
部屋が静まり返る。
「……五階?」
「そう」
ロキシーは頷く。
「そこには、伝説の《生命の書》が存在する」
ノアの目がわずかに見開かれる。
「生命の書?」
「そこには、人類の歴史のすべてが記されている」
ロキシーは続けた。
「歴史上の最大の謎も、そのページには記録されている」
「……全部の歴史が?」
「全部」
その話には、さすがのノアも驚きを隠せなかった。
「現在、私たちは第三階層にいる」
ロキシーは上を指差す。
「そして次の階層へ進むには、試練を突破しなければならない」
「なるほど……なるほど……」
ノアは腕を組み、真剣な顔を作ろうとした。
しかし、心の中ではまったく別のことになっていた。
(グラン・キューブ・ボイエル?)
(生命の書?)
(階層を上がるための試練?)
(――すごい!!)
ノアの頭の中は興奮で爆発しそうだった。
まさに、彼がファンタジー世界で出会うことを期待していたようなものだった。
だが、一つだけ引っかかることがあった。
ボイエル。
その名前を、ノアは知っていた。
それは、彼の世界に存在する星座の名前だった。
しかし、すぐにその考えを振り払う。
きっと偶然だ。
それ以外にありえない。
「俺たちがいるのは……塔なんだよな?」
ノアが尋ねる。
ダリウスは小さく笑った。
「そうでもあるし、違うとも言える」
「……え?」
「地表から十キロ以上も離れた場所にある」
ダリウスはそう答えた。
ノアは頷く。
「じゃあ、巨大な塔ってことか」
「正確には違う」
「え?」
ダリウスは机の上に腕を置いた。
「グラン・キューブ・ボイエルは、地上に建てられているわけじゃない」
ノアはまばたきをする。
「……何?」
「浮いているんだ」
部屋が静まり返った。
「……浮いてる?」
「ああ」
「どういう意味で浮いてるんだ?」
「空中に浮かんでいるってことよ」
レベッカが答えた。
ノアはその場で固まった。
その言葉を理解するまでに、数秒の時間が必要だった。
「……待ってくれ」
ノアはその場にいる全員を見回した。
「つまり……この場所全体が空中に浮かんでいるってことか?」
「その通り」
ロキシーが答える。
「しかも、地上から十キロ以上の高さにある」
ダリウスが付け加えた。
再び、部屋に静寂が広がる。
ノアはまばたきをする。
一回。
二回。
三回。
そして――突然立ち上がった。
「――この巨大なキューブ全体が飛んでるのか!?」
その叫び声が部屋中に響き渡る。
その勢いに、メインでさえ少し驚いて肩を跳ねさせた。
「こんなに巨大なものが、どうやって浮いてるんだよ!?」
「誰にも分からない」
レベッカが答える。
「じゃあ、その下には何があるんだ!?」
「雲」
「その雲の下は?」
「地上よ」
「じゃあ、もし誰かが落ちたら!?」
その瞬間。
全員の表情が真剣なものへ変わった。
「死ぬ」
ロキシーが静かに答えた。
ノアは、その場で固まった。




