第二話 記憶喪失
「ノア・アーデントは、ごく普通の少年だった。才能があるわけでも、特別な力に恵まれているわけでもない。ましてや裕福でもなかった。むしろその逆だ。何一つ秀でたものはなく、中流家庭で育った。
高校最後の学年に進級したばかりの十七歳の学生だった彼は、自分の人生が良い方向へ変わる日が来るなど、想像したこともなかった。
彼のこれまでの人生は、惨めそのものだった。
――だが、今からすべてが変わる。」
ノアは部屋を見回しながら、そう思っていた。
まるでファンタジー小説から飛び出してきたような部屋だった。
壁には小さなひび割れの間を縫うように緑色の蔦が伸び、部屋のあちこちには大きさの異なる植木鉢が並べられている。見たこともない花々が床を彩り、中には鮮やかな青い花びらを持つものや、甘く優しい香りを漂わせるものもあった。
植物の合間には装飾用の岩や、丁寧に手入れされた小さな低木まで置かれている。
光さえも不思議だった。
照明や電灯はどこにもない。
部屋を照らしているのは、リンゴほどの大きさの金色の光球だった。それらは宙に浮かび、柔らかな光を放っている。
ノアは目を輝かせながら、それらを見つめた。
「……魔法だ」
胸が高鳴る。
続いて銀色の髪の少女へ視線を向ける。
長い耳。
美しい容姿。
間違いなくエルフだった。
次に赤髪の青年を見る。
腰には剣。
見慣れない服装。
まるで冒険者だ。
ノアの顔に大きな笑みが浮かんだ。
すべてが繋がった。
何もかもだ。
「ノア!」
銀髪の少女が叫ぶ。
しかし、ノアは返事をしなかった。
目の前に広がる光景を理解することで頭がいっぱいだったのだ。
「どうしてそんなに様子がおかしいの?」
エルフの少女は小首をかしげながら尋ねた。
「ノア、大丈夫か?」
赤髪の青年も心配そうに声をかける。
ノアは二人を見つめた。
それから部屋を見回す。
そして、もう一度二人を見る。
エルフ。
剣士。
魔法の光。
見知らぬ植物。
見間違えるはずがない。
やがてノアは立ち上がった。
胸を張り、
両手を腰に当て、
腹の底から宣言する。
「俺は――ノア・アーデントだ!!」
その声は部屋中に響き渡った。
数秒の沈黙が流れる。
エルフの少女と赤髪の青年はその場で固まった。
二人はまばたきをし、
互いに顔を見合わせ、
そして再びノアへと視線を向けた。
「いや、お前がノアなのは知ってるけど……」
赤髪の青年は眉をひそめながら言った。
「なんで急にそんなことを言うんだ?」
ノアの笑みはゆっくりと消えていく。
両腕を下ろし、
何度かまばたきをして、
二人をじっと見つめた。
「……え?」
その言葉を聞いたノアは眉をひそめた。
何かがおかしい。
ゆっくりと自分の体へ視線を落とす。
そこで、ようやく違和感に気づいた。
さっきまで着ていた服ではない。
黒いパーカーも、スポーツ用のズボンも消えていた。
今の彼が身に着けているのは、濃い色の布製シャツと、長旅に耐えられそうな丈夫なズボンだった。
ノアは何度もまばたきをする。
ゆっくりと片腕を持ち上げた。
その動きが止まる。
何かがおかしい。
いや――明らかにおかしい。
震える手で袖をまくる。
その瞬間、瞳が大きく見開かれた。
傷跡。
腕一面に、無数の傷跡が刻まれていた。
細く小さなものもあれば、
ずっと昔に治ったと思われる深い切り傷もある。
あまりにも多すぎる。
普通の人間が負うには、多すぎた。
ノアはその傷跡を目でなぞる。
一つとして覚えがない。
呼吸が次第に速くなっていく。
「……何だ、これ……?」
反射的に、一つの傷跡へ指先を触れた。
確かな感触が返ってくる。
夢ではなかった。
それから、ノアはゆっくりと拳を握り締めた。
感じる。
力を。
以前の自分とは比べものにならないほどの力を。
筋肉の反応は鋭く、
体は軽い。
しかも、頑丈だ。
まるで長年鍛え続けてきたかのような肉体。
まるで、自分の知らない人生を生きてきたかのようだった。
「わ、わからない……」
震える声が漏れる。
「異世界に来たはずなのに……俺は……前の俺じゃない気がする」
ノアの視線は再び傷跡へと落ちた。
その無数の傷は、まるで一つの物語を語っているようだった。
だが、その物語を彼は何一つ知らない。
「……ノア?」
エルフの少女の声が、彼の思考を引き戻した。
ノアはゆっくりと顔を上げる。
少女は不思議そうな表情で彼を見つめていた。
その瞳に浮かんでいるのは心配。
――そして、どこか怯えにも似た感情だった。
「どうして……俺の名前を知ってるんだ?」
考えるより先に、その言葉が口をついて出た。
「……え?」
部屋は、静寂に包まれた。
天井近くを漂う光球は、部屋中の草花を柔らかな光で照らし続けていた。
だが――誰も口を開かなかった。
エルフの少女も。
赤髪の青年も。
数秒の間、二人はただノアを見つめることしかできなかった。
まるで、あり得ない言葉を耳にしたかのように。
「……え?」
赤髪の青年がかすれた声でつぶやく。
その瞬間、エルフの少女の表情が一変した。
「――えぇっ!?」
少女の叫びが部屋中に響き渡る。
植物の間で休んでいた小さな鳥たちは、一斉に驚いて飛び立った。
少女はノアのもとへ駆け出す。
あまりの勢いに、転びそうになるほどだった。
「ノア!」
その瞳は激しく揺れていた。
ひどく怯えている。
まるで、この世で最悪の知らせを聞いてしまったかのように。
一方、赤髪の青年はその場に立ち尽くしていた。
微動だにしない。
目を大きく見開き、
呼吸すら忘れてしまったようだった。
思考が完全に止まってしまったかのように。
「ノア……」
エルフの少女は両手で彼の頬を包み込んだ。
その指先は小刻みに震えている。
彼女はノアを真正面から見つめさせる。
銀色の瞳は、不安で満ちていた。
「ノア……まさか、記憶を失ったなんて言わないで……!」
ノアの心臓が大きく跳ねた。
二人の距離はあまりにも近い。
彼女の髪から漂うほのかな香りが感じられる。
銀色の瞳には、宙に浮かぶ光球の輝きが映り込んでいた。
その表情からは、必死な焦りが伝わってくる。
そして、ノアはもう一つのことにも気づいた。
――彼女は、とてつもなく美しかった。
あまりにも、美しすぎた。
ノアの思考は、数秒間完全に停止した。
「え……?」
ごくり、と唾を飲み込む。
何とか意識を集中させようとする。
だが、それは難しかった。
あまりにも難しい。
目の前には、エルフの少女の顔がすぐそこにあったのだから。
「お、俺は……」
恥ずかしそうに視線をそらす。
「その……」
再び、自分の腕の傷跡へ目を向けた。
それから部屋を見回し、
エルフの少女を見て、
最後に赤髪の青年を見る。
何かを思い出そうとした。
何でもいい。
名前でも。
場所でも。
記憶の断片でも。
しかし――何も浮かばない。
本当に、何一つ。
心の中には、不自然な空白だけが広がっていた。
まるで誰かに、記憶という本のページを根こそぎ引き裂かれてしまったかのように。
ノアの表情は、ますます困惑に染まっていく。
「……わからない」
かすれるような声だった。
その言葉を聞き、エルフの少女の表情はさらに曇る。
「たぶん……」
ノアはぎゅっと拳を握り締めた。
「たぶん、本当に記憶を失ってるんだと思う」
その答えを聞いた少女は、その場で凍りついた。
やがてゆっくりとノアの頬から手を離す。
視線は静かに床へ落ちた。
その顔には、不安と戸惑いがありありと浮かんでいる。
まるで、到底受け入れられない現実を理解しようとしているようだった。
「そんな……」
少女は小さくつぶやいた。
ノアは事情がわからないまま彼女を見つめる。
――どうして、二人はこんなにも動揺しているんだ?
答えを探そうとしていた、その時。
ようやく赤髪の青年が動き出した。
彼はノアに歩み寄ると、そっと腕をつかむ。
「ノア、俺たちと来てくれ」
その声は落ち着いていた。
だが、その奥に張り詰めた緊張をノアは感じ取った。
皆のために、必死に冷静さを保とうとしているようだった。
「話さなきゃならないことがある。」
ノアが返事をする暇も与えず、赤髪の青年はそのまま部屋の外へと彼を導き始めた。
ノアは最後にもう一度だけ部屋を振り返る。
色とりどりの花。
見たこともない植物。
天井近くを漂う小さな光球。
どれもまるで、幻想世界の物語からそのまま飛び出してきたようだった。
(やっぱり……異世界なんだ)
そう思いながら歩き出す。
その後ろを、エルフの少女が静かについてくる。
彼女の表情は依然として沈んだままだった。
うつむき加減に歩き、瞳からは先ほどまでの輝きがすっかり失われている。
まるで、取り返しのつかない知らせを受けたかのように打ちひしがれていた。
ノアは何があったのか尋ねようとした。
だが、今はその時ではない――そんな気がした。
やがて三人は部屋を出る。
そして、その先の光景を目にしたノアは数秒間、その場に立ち尽くした。
目の前には、広大な石造りの回廊がどこまでも続いていた。
壁は灰色の石で造られ、
一定の間隔で設置されたランプが周囲を照らしている。
窓はない。
絵画もない。
装飾らしいものも一切ない。
あるのは石だけ。
どこを見ても石ばかりだった。
いくつもの通路が交差し、
それぞれが別々の方向へと伸びている。
迷宮というほどではない。
だが、一度入り込めば簡単に道に迷ってしまいそうなほど、複雑な造りをしていた。
三人の足音が、人気のない回廊に静かに響き渡る。
ノアは周囲を興味深そうに見回した。
ここは、自分が想像していたような幻想的な城や王都とはまったく違っていた。
「せめて、ここがどこなのかくらい教えてもらえませんか?」
目の前に続く果てしない回廊を眺めながら、ノアは尋ねた。
赤髪の青年は歩みを止めない。
「落ち着け、ノア」
その穏やかな声が石壁の間に静かに響く。
「今のお前が混乱しているのは当然だ」
「ものすごく混乱してます」
「だろうな」
赤髪の青年は、初めてわずかに笑みを浮かべた。
「全部説明する」
「だから今は、質問を少しだけ我慢してくれ」
ノアは少しだけ頬を膨らませた。
聞きたいことは山ほどある。
いや、おそらく何千個もある。
見知らぬ場所で目を覚まし、
見覚えのない身体になっていて、
しかも、自分のことを知っている人たちに囲まれているのだ。
それなのに、誰も何一つ説明してくれない。
(これも異世界もののお約束だな)
ノアは心の中でつぶやく。
(最初は主人公を混乱させて、それから世界設定を説明するんだ)
石造りの回廊を数分ほど歩き続けると、
やがて三人は一枚の大きな木製の扉の前へとたどり着いた。
他の扉よりもひと回り大きい。
一目で、特別な場所へ通じる扉だとわかる。
赤髪の青年はドアノブに手をかけた。
深く息を吸い、
そして――扉を開いた。




