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第1話 死ぬはずだった少年

第1話 死ぬはずだった少年


雨は、街に降り続けていた。


建物の明かりや色鮮やかな看板の光が、濡れたアスファルトに反射している。

地面に落ちる雨粒によって、その光の模様は歪みながら広がっていた。


絶え間なく響く雨音は、車のエンジン音や水たまりを踏み越えるタイヤの音と混ざり合い、冷たい夜の街を満たしていた。


そんな雨の夜、一人の少年が黒いジャージ姿で歩いていた。


目的地などない。


ただ、歩いていた。


ずぶ濡れになった靴が小さな水たまりを踏むたび、ぱしゃりと音を立てる。

雨水は髪から流れ落ち、頬を伝っていく。


しかし、その顔を濡らしている理由は雨だけではなかった。


少年は泣いていた。


隣を通り過ぎる車は、彼に気づくこともなく走り去っていく。


傘を差した人々は、早く家へ帰ろうと足早に歩き、嵐の中を進む少年など気にも留めなかった。


まるで、この世界から少年の存在だけが消えてしまったかのように。


やがて、少年は足を止めた。


ゆっくりと顔を上げ、暗い夜空を見上げる。


星はなかった。


そこにあるのは、地平線を覆い尽くす黒い雲だけだった。


「い、いつも……同じだ……」


震える声で、少年は呟いた。


涙は雨粒と混ざり合い、頬を流れていく。


その瞬間、失われた記憶が蘇り始めた。


刃物のように。


決して塞がることのなかった傷のように。


頭の中に浮かんだのは、兄の姿だった。


笑い声。


楽しかった時間。


そして――


兄の死を知らされた日のこと。


残された空白。


家に残った静寂。


少年は強く拳を握りしめた。


「兄さんは……死んだ……」


声が震える。


「学校で馬鹿にされるのも耐えられない……。部屋に引きこもって、何もしないまま過ごして……アニメを見て、ゲームをしてるだけ……」


呼吸が少しずつ乱れていく。


「俺は……最低な息子だ……」


その言葉には、自分自身への憎しみが込められていた。


「もし……ファンタジーの世界に行けたら……」


少年は空を見上げる。


「……何もかもやり直せる場所に行けたら……」


そこでは、誰も自分を知らない。


誰も自分を笑わない。


そして――


自分が価値のある人間になれる場所。


意味のある存在になれる場所。


涙を拭おうとしながら、少年は気づかないうちに暗い路地へと入り込んでいた。


周囲の建物が、近くにある街灯の光を遮っている。


そこは、先ほどまでいた場所よりも冷たく感じた。


より空虚で。


より静かだった。


少年の足音だけが、湿った壁の間に響いていた。


彼は俯いたまま、ゆっくりと歩き続ける。


そして――


記憶が蘇り始めた。


侮辱。


嘲笑。


笑い声。


突き飛ばされた感触。


哀れむような視線。


家での言い争い。


孤独という感覚。


映像が次々と頭の中に流れ込んでくる。


止まることなく。


息をつく暇さえ与えずに。


「俺は……最低だ……」


少年は呟いた。


路地を抜けた瞬間。


彼は顔を上げた。


そして――


その場で動きを止めた。


道路の中央に、一人の少女がいた。


年齢は自分と同じくらいだろう。


綺麗な少女だった。


雨に濡れた髪を揺らしながら、彼女は三人の男たちから逃げようとしていた。


男たちの表情を見れば、その目的は明らかだった。


しかし。


少年が目を奪われたのは、それではなかった。


もっと別のもの。


もっと恐ろしいものだった。


――トラック。


それは、彼らに向かって一直線に走っていた。


猛スピードで。


ヘッドライトの光が雨を切り裂く。


まるで二つの巨大な光る目のようだった。


少年の目が大きく見開かれる。


「――おい!! 逃げろ!!」


少年の叫び声が、夜の街に響き渡った。


しかし、少女は反応しない。


聞こえていないのかもしれない。


恐怖で動けないのかもしれない。


あるいは――


もう遅すぎたのかもしれない。


少年は眉をひそめた。


歯を食いしばる。


そして、走り出した。


足が勝手に動いていた。


考える暇などなかった。


迷うこともなかった。


ただ、走った。


近づくにつれて、三人の男たちもようやくトラックの存在に気づいた。


彼らの顔から血の気が引く。


そして――


逃げ出した。


少女を置き去りにして。


しかし、少女は足を取られた。


濡れたアスファルトで足を滑らせる。


そのまま地面へ倒れ込んだ。


トラックは、さらに近づいてくる。


近すぎる。


エンジン音が獣の咆哮のように響いた。


時間が消えていくようだった。


少年は腕を伸ばした。


そして、衝突する直前――


彼の手が少女の背中に届いた。


「……っ!!」


少年は、残された全ての力を込めて彼女を押した。


少女の身体は勢いよく道路の外へ飛ばされる。


彼女は助かった。


そして――


時間が止まった。


音が消えた。


雨は空中で静止した。


無数の雨粒が、暗闇の中に浮かぶ小さなガラスのように動きを止めている。


すべてが静寂に包まれた。


少年は、凍りついた世界を見渡した。


そして初めて――


本当の恐怖を感じた。


「……何だ?」


自分の手を見る。


「……俺は、何をしているんだ?」


声は、かすかな呟きだった。


「どうして……」


「どうして、名前も知らない人の命を助けようとしているんだ……?」


少年はゆっくりと視線を落とした。


その顔には、苦い笑みが浮かんでいた。


「俺は……この人生を終えるんだ……」


瞳が震える。


「この世界で……何も成し遂げられなかった」


無駄にしてきた年月を思い出す。


逃してきた数え切れないほどの機会。


勇気がなくて、何もできなかったこと。


すべてが頭の中を駆け巡る。


「……俺は、こんな形で死ぬのか?」


呼吸が重くなる。


「これが……俺の最後なのか?」


喉の奥が締め付けられるようだった。


「後悔していることが……多すぎる……」


再び涙が溢れる。


「俺は……本当に最低だ……」


声が震えた。


「ずっと……死にたいと思っていた……」


「全部……何もかも捨ててしまいたいと思っていた……」


少年は目を閉じた。


そして一瞬だけ――


自分の運命を受け入れようとした。


しかし、その時。


彼の心は、必死に一つの真実へとしがみついた。


今まで決して認めることのなかった真実。


「……それでも」


少年は歯を食いしばる。


「俺は……死にたくない」


すべてが黒に染まった。


その暗闇の中で、彼は何も感じることができなかった。


まるで、すべての感覚が消え去ってしまったかのようだった。


見るための目も。


触れるための皮膚も。


自分の身体が存在しているのかさえ分からず、動くことすらできない。


それでも――


彼には、何かが聞こえていた。


「ノア……ノア……」


少女の声だった。


「ノア、起きて……ノア」


少年はゆっくりと目を開いた。


「……何だ? ここは……?」


ノアは、植物と岩に囲まれた部屋の床に横たわっていた。


色とりどりの花がいくつも咲いており、まるで小さな庭園のような雰囲気を作り出している。


「ノア! やっと目を覚ました!」


少女は声を上げた。


その肩からは、重い荷物をようやく下ろしたかのように力が抜けていく。


「本当に心配したんだよ……。もう二度と目を開けないんじゃないかって……」


その少女は、とても不思議な姿をしていた。


銀色に近い白髪。


そして、髪の間から伸びる長い耳。


彼女の隣には、赤い髪をした少年が立っていた。


腰には剣を携えている。


少女とは違い、彼は完全に人間のように見えた。


しかし、その服装は目を引いた。


白を基調とし、金色の装飾が施された衣装。


まるで砂漠の国の戦士のような姿だった。


ノアは、二人から少し距離を取った。


少女と赤髪の少年は驚いた表情を浮かべる。


「ノア……大丈夫か?」


赤髪の少年が尋ねた。


なぜか、ノアは恐怖を感じていた。


……無理もない。


目を覚ましたら、知らない場所の床に倒れていて。


そして、見知らぬ二人の人間にじっと見つめられているのだから。


ノアは深く息を吸った。


落ち着こうとする。


ゆっくりと手を口元へ持っていき、視線を下げた。


そして考え始める。


「ノア……?」


返事をしない彼を見て、二人が同時に声をかけた。


植物で満たされた部屋。


美しいエルフの少女。


剣を持った戦士。


待て。


ということは……。


ノアは勢いよく立ち上がった。


両腕を大きく広げ、目を見開く。


「――俺、異世界に召喚されたのか!?」

初めまして、クリロンです。

この作品を読んでいただきありがとうございます。

「異世界アルカ」は、記憶を失った少年ノアが、自分自身と向き合いながら異世界を進んでいく物語です。

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

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