なんでたよ
ある日茉尋はぼやいていた。
「最近あったかかったのに、なんで今日はこんなに寒いの?」
「三寒四温って言葉があるくらいだからな。もう少しの辛抱だ。すぐに春が来るよ」
「むーっ。寒い寒い寒いっ。海に行きたいのに潮風が冷たくて行けないよ」
そう言いながら茉尋は不貞腐れていた。
「また水族館連れてってやるからそんなに不貞腐れるなよ」
「ほんとっ?行きたい行きたい行きたぁーいっ。いつ行くっ?」
「んー、今週末?」
「おけおけ。今週末ねっ」
さっきまでの不貞腐れた茉尋はどこへやら、一瞬にして弾けるような笑顔になった。
「くっらげー、くっらげーっ、エットピリカッ」
「なんだ?エトピリカって」
「んーとねー、これこれ」
茉尋はスマホを手に取ると、エトピリカとやらの画像を見せてくれた。それはペンギンのような鳥のような生き物だった。続いて茉尋は動画も見せてくれた。
「ははっ。何だこいつ。可愛いな」
「でしょでしょ?こやつをナマで見たいのよ」
俺は自分のスマホを手に取るとエトピリカがいる水族館を検索してみた。
…ここか…ちょっと遠いな。でも行けない距離ではない。
「ちょっと移動に時間がかかるぞ?」
「やったぁ。遠足だぁ。せんせーっ、おやつはいくらまで買っていいですかぁ?」
「300円」
「このご時世、300円では厳しいと思いまっすっ」
「お前が好きなのは駄菓子だろ。300円あれば十分だ」
「せんせーっ、このご時世、駄菓子の値段も上がっておりまっす」
「…じゃあ500円?」
「ははっ。千明くんあっま。やっぱり千明くんは私に甘いな」
茉尋は満足そうにそう言っていた。
別におやつの値段なんてどうでもいい。でも茉尋はこんなどうでもいいことでも、すぐにイベントごとにしてしまう。だからいちいち楽しいんだよな。
この後俺たちはスーパーに行くとお菓子売り場でお菓子を吟味していた。
茉尋は本当に500円以内でおやつを調達しようと、スマホの電卓を片手にお菓子を選んでいた。
「好きなだけ選べよ。大した金額じゃないんだから」
「いんや。こういうルールがあるから楽しいのだよ?千明くん」
何か茉尋なりの楽しみ方があるらしかった。
そんなこんなで買い物を済ませるとうちへと帰った。
「ふう…買った買った。遠足のしおりでも作る?」
「誰が?」
「千明くんが」
「作らない」
「えー作ってよー。挿絵付きで作ってよー」
「作らねーよ」
俺がそう言うと、茉尋は「じゃあ私が作ろっかなぁ」と呟いていた。茉尋なら本当に作りそうだ。
水族館デート当日。茉尋は本当にしおりを作っていた。何となくのタイムテーブルがまとめられていた。それにところどころに可愛いイラストが描かれていた。それはクラゲやペンギン、イルカやヤドカリなんかだった。
あー…可愛いな…。
茉尋は絵を描くのが上手だ。
俺はめっぽう下手だったから、そんな茉尋のことを尊敬していた。
「このペンギン、可愛いな。このヤドカリも」
「ふふんっ。私にかかれば?ま、こんなのちょちょいのちょいなのですよ」
茉尋は得意げにそう言うと、満足そうに笑っていた。
車に乗り込み目的地へと向かっていると、茉尋の体調があからさまに悪くなっていった。
「帰るか」
「やだ…」
「やだってお前…具合悪そうだぞ?」
「でも行きたい。エトピリカ見たい…」
「また今度でもいいだろ?いつでも行けるから」
「…」
茉尋は不貞腐れながら黙ってしまった。
俺はUターンした。
「何で戻ってるの?大丈夫だってっ」
「だめ」
「…少し休憩すれば大丈夫なのに…」
「そんなふうには見えねーよ」
結局俺はそのまま家に向かった。
そうやって帰っていると、本当に茉尋は元気を取り戻したようだった。
「ほらっ。だから言ったじゃん、大丈夫だって。ちょっと車酔いしただけなんだよきっと」
「でもさっきは具合悪そうだった。それに普段お前車酔いしないだろ」
「でも今はこんなに元気だもんっ」
茉尋はそう言っていたけど、さっきの茉尋の姿は、俺の目には深刻に見えた。
「んじゃ帰ったらエトピリカの真似してやるからそれで許せ」
「おっ、言ったね?絶対だからねっ」
家に着くと、俺はエトピリカの動画を見ながら必死に真似をして見せた。
茉尋はそんな俺の姿を見て、手を叩きながら笑っていた。
ああ…幸せだ…。
俺はこんなくだらない毎日が幸せなんだよ。茉尋が戻って来てくれて本当によかった。
俺は…幸せ者だ…。
気がつけば桜は蕾をつけ始めた。
もう時期春が来る。
家の近くには桜の並木道がある。
俺はずっと前から茉尋とそこを歩きたいと思っていた。それがやっと叶う。
道の両側に桜があるのだが、その道幅が狭く、まるで桜のトンネルのようになっている所だ。
「ねえっ。海行きたい。チャッピーに会いたい」
「暖かい日に行ってみるか」
「うんっ。今週の日曜日はあったかいみたいだよ?」
「じゃあ日曜日に行くか」
まだ…海は怖い…。
でもあれから何回か海へ行っても、波が茉尋を攫うことはなかった。だから少しだけ、俺の中で海への警戒心が溶け始めていた。
それにこんなに茉尋が喜ぶんだ。
俺は目の前で楽しそうにしている茉尋を見てそう思っていた。
約束の日曜日になり、俺は茉尋と散歩をしていた。いつもの散歩コースだ。商店街を歩き、その先にある海へと向かう。
「ちょっとだけっ。ちょっとだけでいいから海に入ってもいい?」
茉尋がそう言うもんだから、俺は海に手を入れてみた。
「めっちゃ冷たいぞ?」
「それでもいい。足だけだから」
「んー…わかった」
俺はそう言うと靴を脱ぎ、靴下も脱いだ。
「なんで千明くんまで脱いでんの?」
「だって海に入りたいんだろ?」
「そうだけど…」
「俺も付き合うよ」
茉尋も靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。
「ほら、手」
俺は茉尋に手を差し出した。
「え、なに?なんで?」
「海に入るなら、手を繋ぐことが条件」
「だからなんで?」
「…条件飲まないんだったら海に入るのはナシな」
「子どもじゃないんだから」
茉尋はそう言いながらも俺の手をぎゅっと握ってくれた。
これなら万が一波が来ても茉尋が連れ去られることはない。
それに今日の波はとても穏やかだった。
あの日のことは夢かなんかだったと頭では思いつつあっても、やっぱり海を見ると心のどこかで胸がざわついていた。
でもこうやって手を繋いでいればきっと大丈夫。
俺は茉尋が握ってくれた手を握り返した。
温かくて柔らかい手だ。
茉尋が俺の手を引き海へと向かった。
茉尋の足が海に触れた。
は?
え…?…は…?
「茉尋?」
なんで…?
「茉尋っ」
「茉尋っ?」
茉尋の足が海に触れた瞬間、手を繋いでいたはずの茉尋の姿は…
泡となって消えてしまった…。
茉尋が消えてしまったあと、俺は何時間も海を探した。腰深くまで海に入り茉尋を探し続けた。
「茉尋ーっ」
海に流されていないことわかっていた。
…だって…俺の目の前で消えたんだから。
それでも俺は海の中を探し続けた。
待って…
待ってくれよ…
なんで急にいなくなっちゃうんだよ。
いなくなるなら俺も一緒に連れていってくれよ。
ひとりでいなくならないでくれよ。
俺を…ひとりにしないでくれ。
「茉尋ーっ」
「もう帰るぞ?出てこいよー」
「かくれんぼはもうお終いだ。ほら出てこい。風邪ひくぞー?」
俺は海に向かって、そう声をかけ続けた。
冷たい海水が俺の体温をどんどんと奪っていく。
体がガタガタと震え出す。日はもう傾き始めた。
それでも俺は茉尋を探し続けた。
「なにやってんだよ千明っ」
シンちゃんがそう言いながら俺の動きを封じるように抱きついた。
「茉尋がっ…茉尋がっっ…」
「千明っ。どうしちゃったんだよ」
「…茉尋が…」
「…気の毒だけど茉尋ちゃんはあの夏に…」
は?
あの夏…?
昨日だってシンちゃんはうちに来て、酒を飲みながら茉尋と楽しそうに話してたじゃないか…。
「何言ってんだよシンちゃんっ。昨日うちに来ただろっ?茉尋と一緒に酒を飲んだだろっ?」
俺はそう言った。
するとシンちゃんの腕の力が少しゆるんだ。
その隙に向かい合うようにすると、シンちゃんの両肩を掴み、しっかりと目を合わせた。
「昨日のこと忘れちゃった?昨日うちに来たじゃんかっ。茉尋と楽しそうに話してたじゃんかっ」
俺がそう言うと、シンちゃん憐れむような目で俺のことを見た。
「気持ちはわかるよ。俺だって悲しいんだ。でもちゃんと現実に向き合わないと」
何を言ってるんだ?
現実に向き合えだと?
さっきまで茉尋はちゃんといたんだ。
手の温もりもしっかりと覚えている。温かくて小さくて、柔らかい手だ。さっきまで握っていた手の感覚が今も残ってる。
「千明…一体どのくらい海の中にいたんだ?もう凍えて震えてんじゃん。早く帰って温まらないと…」
「…昨日…昨日シンちゃんはどうやって夜を過ごしたの?」
「え?…どうって…いつも通りひとり寂しく、ご飯を食べながら酒を飲んでたよ」
違う。違うのに…
「この前の土曜日は琥太郎と一緒にうちの庭に来て、余った手持ち花火を一緒にしたのは覚えてる?もちろん茉尋も一緒に。4人で」
先週の土曜の夜はそうやって過ごした。
琥太郎が余った花火があるから一緒にやろうと誘ってくれたからだ。去年の夏に何かの景品で当たったんだけど、それがまだまだ余っているからと言っていた。花火を確認してみると、本当にたくさんあったからシンちゃんも誘って4人で楽しんだ。
「千明…先週は3人だったよ…とにかくもう帰ろう。このままだと本当に体を壊すぞ」
シンちゃんは心配そうに俺を見た。
記憶が…改ざんされている…
俺はそのまま引きずられるようにして家へと戻った。
家に着いてから急激に寒さを感じる始めた。
さっきも寒かったけど、きっとアドレナリンかなにかのせいで、寒さをあまり感じていなかったんだ。だからここまで冷え切ってるとは思っていなかった。
急いでお湯はりスイッチを押すと、まだ全然たまってもない浴槽に入った。
やっぱり茉尋はもうこの世にいないのか?
だってそういうことだよな?そうじゃなければあんなふうに消えたりしないんだから。
ならなんで?なんでなんだ?
会話もできた。ご飯も食べてたし触れることもできた。
覚えてる。全部覚えてる。
触れた感覚だって覚えてるのに。
ここ数ヶ月の茉尋を…ちゃんと…ちゃんと覚えてるのに…。
俺はまた….茉尋を失ってしまったのか…。
喪失感が半端なかった。
二度も目の前で茉尋を失って、胸が張り裂けるように痛かった。
俺は湯船の中でただただ涙を流すしかなかった。
茉尋…
俺はもう…やっぱり茉尋の死を受け入れかないといけないのか?遺体もないのに?
あの夏、茉尋が波に飲まれてから数日は、茉尋の死を受け入れつつあった。あんな酷い嵐だったんだ。そんな中、あの波に飲まれてしまえば助かるのは奇跡に近いだろう。それでもあの時は最後まで諦めたくないという気持ちと、もうダメかもしれないと冷静に思う自分もいた。
茉尋の遺体が浜に打ち上がってないかとずっと探していた。茉尋とこの家に帰りたかった。連れて帰ってあげたかった。
でも今となっては茉尋の死を受け入れるだなんてもう無理だ。
茉尋と再開して過ごした数ヶ月間、俺はすごく幸せだったんだ。
毎朝茉尋がちゃんと隣にいるか確認するのが日課になっていた。
それで茉尋が眠っている姿を見てはただただそれに感謝をし、また幸せを感じていた。寝ている茉尋にそっと触れ、温かさを感じるとまた幸せを感じた。一緒にご飯を食べているだけでも幸せを感じ、茉尋が冗談を言ったり、拗ねたり、わけのわからない歌を歌いだしたり、笑ったり…そういう一挙一動に、俺はいちいち幸せを感じていたんだ。
今更もう無理だよ。
あんなに毎日幸せを感じていたのに、また茉尋を失ってしまうだなんて…。
桜…見せたかったな。
あの桜のトンネルを2人で歩きたかった。
夏の祭りにも一緒に楽しみたかった。
茉尋に見せたいもの、連れて行きたい場所、一緒にやりたいことがたくさんあったのに、結局なにもできなかった。
ふと自分の手のひらを見てみると、指がふやけていた。どのくらい風呂に浸かってたんだ…?
俺は重い腰を上げると、ふらふらとしながら浴室を出た。




