日常
とにかく茉尋には海に近づくなと言いながら日々を過ごしていた。
季節がもう冬になりつつあるからというのもあり、茉尋が海に入りたがることはなくなった。それでも茉尋はチャッピーに会いたいと言い、海に行きたがった。そんな時は俺が必ず付き添い海へと向かった。
でもやっぱり茉尋を海に近づけさせたくなくて、俺は口を酸っぱくして何度も“ひとりで海に近づくな”と言い続けた。
「ねえ、初詣は日付が変わってから行く?それとも明日の午前中に行く?」
茉尋がそう聞いてきた。
茉尋が戻ってきて1ヶ月半以上が経とうとしていた。
この期間、なんの問題もなく過ごせていた。
商店街の人たちは俺たちの姿を見れば「相変わらず仲が良いね」と言い、近所の人やシンちゃんなんかはお裾分けとして料理や野菜などをくれた。茉尋の職場の店長も、なんの疑問も持たずに茉尋を受け入れていた。
この1ヶ月半でわかったことは、誰も茉尋があの日の荒波に攫われて、行方不明になっていたことを忘れてしまっているということだった。
本当にみんなそうだった。
「チャッピーに会いたい」
「遠目でも見えるんだろ?」
「海に…入りたい」
今は真冬だぞ?
「凍えるぞ?」
「…海に…」
茉尋はそう言うことが増えた。
茉尋があまりにもそう言うから、次の日曜日に俺は茉尋と一緒に海へと向かった。
「海に入るのはだめだぞ?」
俺はあの日以来、茉尋を海に近づけたくなかった。それにはちゃんと理由がある。
あの日…
俺は見たんだ。
見間違いなんかじゃない。何度も自分の勘違いや見間違いを疑った。
でも…
あの日のあの波…
確実に茉尋を狙っているようだった。
俺にはそう見えたんだ。だから茉尋を海に近づけたくなかった。
だから茉尋にも海へは行かないように言ってきた。
「ははっ。さすがに寒すぎて海に入る気にはならないや」
商店街を散歩してから海に行くと、茉尋がそう言いだした。
「なんで私、海に入りたがってたんだろう」
続けてそう言っていた。
茉尋は波打ち際まで行くと、チャッピーのことを呼んでいた。しばらくするとチャッピーは姿を現したようで、茉尋は楽しそうにしていた。俺はそれを近くで見守っていた。
この距離なら大丈夫。万が一、茉尋がまた波に攫われそうになっても、この距離ならちゃんと茉尋のことを捕まえられる。そのぐらいの距離を保ち茉尋のそばにいた。
「ねえっ。今日は何食べたいっ?」
唐突に茉尋がそう聞いてきた。
「んー、寒いから鍋にでもするか?白菜安かったし」
「大晦日なのに?」
そうだった。今日は12月31日だった。
考えることが多すぎて、日常のそういうことはあまり意識していなかった。
「じゃあすき焼きにでもするか」
「賛成ーっ」
茉尋は楽しそうにそう言った。
しまいには「おっ肉っおっ肉っ、おっいしいおっ肉っ」と言いながら、歌い始めた。
「ははっ。なんだその歌は」
「お肉の歌っ。作詞作曲歌、全部私っ。どう?いい歌でしょ?」
いつもと変わらない日常。
それがこんなにも幸せなことだったなんて…。
茉尋が海に飲まれる前から幸せだと思っていたけど、あの日を境に俺はそう思うことが多くなっていた。
それは一緒にご飯を食べている時。
一緒に寝ている時。一緒に歩いている時。
手を繋いでいる時。茉尋の笑顔を見た時。
茉尋が楽しそうにしている時。
その他にもそう思う瞬間が俺にはたくさんあった。
すき焼きの食材を買ってから家に帰ると、すぐに準備をした。
初詣は明日行くことにした。買い物から帰る途中で雪が降ってきてしまったからだ。
「雪積もるかな?」
「どうだろうな」
俺はそう言いながらカーテンを開け、窓の外を眺めた。
「もう少し積もってるぞ」
「本当っ?」
茉尋も窓に近づいた。
「明日は庭に雪だるまでも作ろっか」
「お前は子どもか」
「ははっ。童心に帰ることは時には必要なのです」
こういう無邪気な茉尋のことが大好きだ。大好きなんだけど俺はこう答えた。
「寒いからヤだ」
「もうっ。一緒に雪で遊ぼうよっ」
雪が降ると、茉尋はいつもこんな感じでテンションが上がる。
やっぱり…本当に茉尋だよな?
俺はもう考えることをやめた。
茉尋にどんな摩訶不思議なことが起きたのかはわからなかったけど、もしかしたら奇跡でも起こったのではないかと思うようになっていた。
なんとも非現実的な考えだけど、もうそうとしか説明がつかなかった。
なにがどうなって今、茉尋と一緒にいることができているのかはわからないけど、茉尋が戻ってきたことと、またこんなふうに毎日を送れることに感謝をしながら生きて行こう。俺はそう決めた。
あれから日々は流れ、茉尋ともなんの問題もなく過ごしていた。
休みの日はどこかへ出かけたり、またいつものように商店街と海を散歩する。
茉尋は定期的にピーマンを使った料理を出してくるし、じゃんけんでは最初にチョキを出す。
前となにも変わらない。
この日常が守れるのなら、これ以上は何も望まない。
「あー寒っ。2月って1番寒いよね」
茉尋がそうぼやいていた。
「そうだな。でもお前寒いの平気だろ?」
「嫌いだよー」
「前に雪が積もった時、あんなに喜びながら庭で遊んでたじゃん。ひとりで」
「今雪降ってないじゃん。雪が降ってたら“ああ…雪が降るほど寒いんだな。それじゃこの寒さも仕方がないな”ってなるじゃん?」
「なんだよそれ」
「だから今は雪降ってないからこの寒さは許せないの。それにあの時は途中から琥太郎くんと遊びましたー。ひとりじゃないもん。それにその後は結局千明くんも遊びに混ざったじゃん」
「最初はひとりではしゃいで遊んでただろ」
俺は目の前の茉尋を見ながら、その時のことを思い出していた。
「見て見てー?千明くんっ。雪だるま作ったよっ」
ひとり庭ではしゃぐ茉尋が、縁側にいる俺にそう言ってきた。本当はこたつに入っていたかったが、茉尋が縁側にいろというもんだから、俺は雪遊びをする茉尋を見守っていた。
「千明くんも一緒に遊ぼうよ」
「寒いからムリ」
「そんなジジクサイこと言ってないでおいでってば」
「俺はいーよ。ここで見てる」
茉尋は「もうっ」と言いながらも、今度は雪うさぎを作り始めた。でも茉尋は上手く形が作れなかったようで何故か三角形のおにぎり型の雪うさぎになっていた。
「おにぎりじゃん」
「何言ってんの?千明くん。ちゃんと“うさ耳”がついてるでしょうが」
「でも三角じゃん」
俺はそう言いながらも、その“おにぎりうさぎ”をかわいいと思っていた。
しばらくそうやって茉尋が作るものを見ていると、琥太郎が庭にやって来た。
「まーちゃんっ、来たよー」
「おっ、いらっしゃい。何して遊ぶ?」
「雪合戦っ」
「よーし。じゃあ的は千明くんね」
2人はそんな会話をしていた。茉尋はどうしても俺を参加させたいようだ。
「よっし。まーちゃん、2:1でちー兄狙おっ」
「おけおけ。今のうちに雪玉作っとこう?」
茉尋と琥太郎は作戦を立てていた。
俺は上着を着ると仕方なしに庭に出た。
俺も急いで雪玉を作ると雪合戦が始まった。俺は2人に気を遣って緩い雪玉を作っていたが、茉尋たちは本気の雪玉で、当たると少し痛かった。
「お前らもっと緩く雪玉作れよっ。いてぇんだよっ」
「あれ?ごめんごめん」
俺がそう言っても茉尋はヘラヘラと笑いながら謝るばかりで、手にはギュッギュッっと雪玉を硬く握っていた。
「だからそらをやめろって言ってんだよっ」
「あははっ」
「“あははっ”じゃなくて。俺はお前らが痛くないように緩い雪玉を作ってるっていうのによ」
「ごめんて」
「ほらまたっ。そのギューギューに雪を握るのやめろっ」
この日のうちの庭は3人の笑い声が響いていた。
俺がそんなことを思い出していると、目の前の茉尋はコタツの上に置いてあるみかんに手を伸ばして、皮を剥き始めた。
「やっぱりコタツにゃみかんだね」
「そうだな」
「……できたっ。ほら見て?みかんパンツ」
茉尋は得意げに笑うと、俺にそのみかんパンツとやらを見せてきた。それから「あーん」と言いながら俺の口を開けさせ、みかんをひと粒放り込んだ。
「甘い?酸っぱい?」
「俺を毒味役にすんなよ」
「ははっ。んでんで?どう?」
「甘いよ」
俺がそう言うと、茉尋は自分も食べ始めた。
「酸っぱぁー。千明くんの嘘つきっ」
「はははっ。道連れじゃ」
大丈夫。茉尋はここにちゃんといる。
「はいっ、もうひと口どうぞ。あーん」
「酸っぱいから俺はもういーよ」
「だーめ。こんなに酸っぱいんじゃ私ひとりで食べきれないもん。ほらあーん」
俺はまた口を開けた。
結局そのみかんはほとんど俺が食べさせられた。
「いやぁ、我々酷い目に遭いましたなぁ千明殿」
「酷い目に遭ったのはほぼ俺だろ」
「いやいや、本当に“してやられました”ね。このかわいいみかんちゃんに」
「だから俺はお前に“してやられた”んだよ」
「まあまあまあまあ…」
「…引きずり出してやる」
「え?」
「“コタツから引きずり”の刑だ」
コタツから出ると、俺は茉尋の後ろに回り、茉尋の両脇に腕を入れるとそのまま引きずり出した。
「やだあっ、寒いー。コタツムリするのー。今日はコタツムリの日なのーっ」
そのまま茉尋を引きずりながら縁側へと向うと手を放し、すぐに俺はコタツに戻った。
当たり前だけど、茉尋もすぐに戻ってきた。
「もうっ。今日は千明くんがお昼作って、夜も作って。私はコタツムリだからっ」
「やだよ。寒いもん」
「私も寒い。じゃあとりあえず、お昼のじゃんけんしよ?」
「受けて立つ」
パーを出して俺は負けた。
「煮込みうどんでいい?」
「ありがとーっ」
俺は寒いキッチンに向かうと、早速準備に取り掛かった。
そんな日常を過ごしているうちに、あんな日はなかったのではと思うようになっていた。
あの日はなかった。
茉尋は波に攫われてなんかいない。
もし事実だったとしても、なんらかの奇跡が起こった。
そう思い始めていた。
それほど穏やかな日々が流れていたのだ。
もしかしたらあの日は、妖がイタズラで俺にリアルな最悪を見せていたのかもしれない。
まあ、そんな妖がいるだなんて聞いたことはないけど。
「はいっ、千明くん。これあげる」
「なにこれ」
「なにって…今日はバレンタインデーだよ?」
コタツでぬくぬくしていると、目の前に巨大なクッキーが置かれた。
どうりでバターのいい香りが部屋中に漂っていたわけだ。
「で、これはなんだ?」
「見ればわかるでしょ?クッキーだよ」
「でかすぎんだろ」
「いや、なんかね?全部くっついちゃって、一枚になっちゃったの」
「…ありがと」
「そんなイヤそうな顔しないでよっ。一生懸命作ったんだよ?千明くんのことを想いながら。くまちゃんかわいいでしょ?」
くまちゃんだと…?
俺はそう言われてじっくりと目の前の巨大なクッキーを見た。
これ…チョコチップクッキーじゃないのか…。
よくよく見てみると、目と鼻と口がちゃんとついていた。しかしそう認識して見ると、とても悲惨でカオスな状況に見えた。
隣同士でくっついてしまった顔。
溶けてしまった目や鼻や口。まるで地獄を見たかのような表情だった。
俺はスマホを取り出すと、それを写真に収めた。
「…なんで写真撮ったの?失敗作なのに」
「失敗作を食わせるなよ」
「こういうのは気持ちでしょ?」
そうだな。そんなのはわかってる。
茉尋は甘いものが好きだけど、お菓子を作るのはめっぽう下手だった。なのに毎年手作りのお菓子をプレゼントしてくれる。
「ははっ。嘘だよ。毎年嬉しいよ。こんなに面白い手作りお菓子を作ってくれるのは茉尋が初めてだからな」
「面白いってひどいっ」
「いやいや、本当に嬉しいんだって」
それは本当だった。
変な見栄を張らない茉尋。ありのままを見せてくれる茉尋。俺はそんな茉尋の姿を見て、すぐに恋に落ちたんだ。
「それじゃ、ありがたくいただきます」
焦げのせいで少し苦いそのクッキーからは、茉尋の愛情がたっぷりと伝わってきた。
「ん。少し苦いけど美味いな。毎年ありがとな」
「もーっ。苦いはよけいだよ」
茉尋はそう言いながらクッキーを割り、自分も食べていた。
「あははっ。にがーっ。でも焦げてないところは美味しいねっ」
無邪気に笑う茉尋を見て、俺は幸せを感じていた。
こんな感じでまた日々は流れていった。




