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琴音を乗せた黒塗りの車が旅館に到着したのは、集会を開いてから約二時間が経った頃でした。旅館周りは街灯がないせいか、既に深夜のように闇が広がり、静寂がどこまでも支配しています。
ただ、山の中腹部に立地している旅館のみが、まるで正常に時を刻んでいるかのように思えました。
出入り口付近に吊るされた赤い提灯が、駐車場の車内からでも確認ができます。琴音はその光景とフロントガラスに映る男から目を逸らし、ふと助手席の窓の外を向きました。そこには、蕾が大きく膨らんだ桜の木が植えられています。
「緊張してんのか」
と、琴音は隣の運転席から声が掛けられました。フロントガラスに映るのは、私服に付け髭、そして黒縁眼鏡という装いの男です。ただでさえ鋭い目つきのせいで人相が悪く見えるのに、髭が加わることで更に人相悪く見えました。
もう完全に、人間を何人か殺したことがある人にしか見えません。
琴音はそんな薙斗の顔を一瞥すると、再び桜の方を向いて小さな声でこう言います。
「べ、別に」
「お前、今笑い堪えてんだろ。肩と声が震えてんぞ」
車内では現在、琴音と薙斗のみが待機をしていました。拠点内を走り回り、隊員たちを引きつける琴音と、監視カメラの監視役を撃破する薙斗がまず旅館から拠点へと乗り込むため、体育館で乾と時雨と別れ、薙斗と共にやって来たのです。
そして、到着して早々開始された薙斗の変装。琴音は笑いを堪えるのに必死でした。
「し、仕方ないよね。向こうには元共存陰陽隊の人たちもいるんだもん。そりゃ、変装しないと、主戦力部隊総隊長補佐の顔なんてすぐわかっちゃうよね――ぶふっ」
「崖から突き落とすぞ」
「……しゅみましぇん」
薙斗から両頬を片手で掴まれた琴音は、間抜けなタコ口で謝罪をするのでした。
『――薙斗くん、琴ちゃん、聞こえますか』
と、助け船がやって来ました。予め時雨から受け取っていたイヤホンマイクから時雨の声が聞こえて来ます。琴音と薙斗はマイクの電源をオンにして応答をしました。
『薙斗くんの変装は終わりましたか』
「更に人相悪くなりました」
『薙斗くんの人相の悪さは、今更どうしようもありませんね』
「お前ら、帰ったら覚えてろよ」
『冗談はさておき、琴ちゃんは薙斗くんに持たせた写真の女性に化けておいてください』
薙斗は胸ポケットに入れていた一枚の写真を琴音に手渡しました。その写真は証明写真のようで、随分と綺麗に身だしなみを整えた女が柔らかい笑顔で写っています。
『その方は、松本理恵さんです。夫である松本隆さんの個人情報を拝借して、松本隆名義で旅館を予約しておきました』
さらりと恐ろしいことをやってのける共存陰陽隊。そこには個人情報保護法の定義が一切見当たりません。琴音は郷に入っては郷に従えという教えを守り、無言で写真の女に化けました。
「胸から上しか写ってないから、洋服とか声とか体型まで再現できませんけど」
『琴ちゃんに化けてもらうのは、念のためなのでそれで十分です。相手は本物の松本理恵さんにも松本隆さんにも会ったことはないはずですから。――そろそろ時間ですね』
「パパは近くにいますか」
突入前に乾の声を聞いておきたかった琴音は、時雨に乾と会話をさせてほしいと頼みます。乾は程なくして応答しました。
『琴音、大丈夫か』
「うん、平気だよ。――あのね、桜の蕾が凄く大きく膨らんでるの。また、みんなでお花見したいね」
『……そうだな』
毎年、桜が満開になる頃、家族みんなで行っていたお花見。今年も開催させるため、琴音は改めて気合いを入れます。
「あたし、ちゃんとやってみせるから。心配しないでね」
『ああ。だが、無理はするなよ』
「パパもね。――行って来ます」
『ああ、行って来い』
琴音と乾の会話が終わると、時雨はそのタイミング見計らったかのように全部隊へ開戦の合図を出します。
『これより拠点制圧作戦を開始する。薙斗補佐、並びに琴音は拠点に侵入し次第連絡せよ』
「「了解」」
琴音と薙斗はイヤホンマイクを髪で隠すと、車を降りて後部座席の荷物を持ち、颯爽と旅館へ向かいました。




