25
下へ行き居間へ向かうと、乾は既に涼香によって治療され、座敷で眠りについていました。琴音は乾の顔を見て少し安心すると、静と風呂に入って早々に床へつきます。静は琴音の様子がおかしいことに気づいていましたが、なに一つ問うことはありませんでした。
「……おやすみ」
琴音は涼香が用意してくれた布団を隣に並べて横になっている静に、そう声を掛けると布団をすっぽりと被ってしまいました。
「おやすみなさい」
静はそんな琴音の姿を見て思います。
今、この子に必要なのは、わたしでもあの人でもないんだろう。
静は部屋の明かりを消して、縁側の方から入ってくる光を見つめました。隣の部屋からは、キーボードが叩かれる音が忙しなく聞こえてきています。静はその音を立てているであろう人物に全てを託すことにして、布団に潜り込みました。
その人は、微笑んでいました。触れてしまえばすぐに壊れてしまいそうな儚さ、それでいてなににも流されない気高さを持ち合わせた人でした。
琴音はまた夢を見ていました。とある貴族の方から譲って貰った白檀の香が、彼女の夢の中をふわふわと漂います。
たとえ夢の中であったとしても、それでいい。もう少しだけこの方の笑顔を見ていたい。この方の声を聞いていたい。琴音はその人の着物の袖をぎゅっと握りしめます。
「琴音、よく聞きなさい。人間も妖も、心はそう大差ありはしないのです」
夢の中のその人は、琴音の背に合わせて屈み、幼子に言い聞かせるような口調でこう言いました。きっといつか、人間と妖とが共存して生きていく世がやってくる。琴音はその人の言葉から、そんな世を本気で信じていました。
主が目指す世を、見てみたいと思ったのです。――たとえ、その身が尽きようとも。
途端、夢の場面は変わりました。部屋に飾られた屏風や乱雑に積み上げられた書物は空間と共に遠くなり、掴んでいた袖は空を掴むように琴音の手からすり抜けてしまいます。
「清才様――!」
主の名を叫びながら必死に走る琴音。自身が身に纏っている十二単の重みが、これほど疎ましく感じたことはありません。
風景は一瞬のうちに暗い森の中へと変わりました。白檀の代わりに、不快なほどの生臭さが鼻孔に纏わり付きます。
琴音は不安に思いつつも、足を一歩踏み出しました。と、なにか硬い物が足に当たり、地面に視線を向けます。
周辺には、悲痛な表情を浮かべた人間の首がいくつも転がっていました。自分の姿をよく見ると、手には清才の袖の代わりに赤黒く染まった鉄扇が握られており、おびただしい量の返り血が髪や着物を濡らしています。
――あたしが、やったんだ。
ぼんやりとそう思うと、急に罪悪感と恐怖心とが同時に沸き起こります。地面に転がる人の顔が、みな自分を責めるかのような目で見つめているような錯覚に陥りました。
琴音の全身は震え出します。そして、主から貰った鉄扇は琴音の手から離れ、音もなく地へと落ちていきました。
「――はっ!」
夢から目覚めた琴音は、勢いよく上半身を起こし、周りを見回します。
そこは、いつもの和室でした。隣では静が小さな寝息を立てて、気持ちよさげに眠っています。その姿を見た琴音は、いくらか気持ちが楽になりました。
「……あんなに怖い夢、初めて見た」
琴音は額に手を当てて、息をつきます。断末魔など聞いたから、怖い夢を見たのだろうか。琴音はあの夢の中の光景を思い出すだけでも、鳥肌が立ちました。
日はまだ昇っていませんでした。端末で時刻を確認すると、午前三時四十分であることがわかります。布団に入ってから約四時間が経っていました。
寝付けそうにない琴音は、布団から這い出て水を飲もうと台所へと向かいます。今夜の屋敷の中は、いつも以上に人の気配が感じられました。座敷からは乾を含め、怪我人たちの寝息が聞こえ、その隣の和室からはなにやら物音が聞こえます。
泊りで隊員たちの治療をしている涼香が、作業をしているようでした。
向かった台所には既に先客がいるようで、電気が点いているのが見えました。出入り口から中の様子を窺うと、直ぐにその先客と目が合います。
「おや」
目が合ったのは、時雨でした。頬には絆創膏が貼られており、風呂上りらしく髪が少し濡れていて数時間前よりも顔色がよく見えます。片手にはビール缶が握られ、ちょうど開けようとしているところでした。




