10
「お勤めご苦労でしたね、薙斗くん。それにしても、君はここが玄関だとでも思っているんですか」
「すまん、この出入り口が一番近いのと、敵の別働隊をどの部屋に投獄しているのかわからなかった。一番投獄していると考えづらい部屋がここだったんだ」
「別働隊なら本部へ連行してもらいましたよ。こちらの一存で生かすも殺すも判断できませんからね。――ところで、いつまでそこに寝転がっているんですか、元師匠殿」
時雨は乾を見下ろしながら、元師匠殿という部分をやけに強調してこう言いました。乾は勇んで立ち上がると、時雨に立ち向かいます。
「てんめえ、それが元師匠に対する態度か」
「では元師匠殿にお聞きしますが、元弟子であるというだけで、自分の補佐が起こした不祥事に巻き込んでもいいんですか」
「そりゃあ、すまねえと思ってる。だがな、俺だって無傷だったわけじゃねえことくらい知ってんだろうが」
「確か、龍壬さんを補佐に任命したのはあなたでしたね。そういうのを自業自得というんですよ、元師匠殿」
乾は笑顔でつらつらと毒を吐く時雨に対し、言い返す言葉を失ったのか、悔しそうに呻き声をあげます。
「こいつ、殴っていい? いいよな?」
と、ついには静に同意を求める始末です。すると、静に目を向けた時雨は、今初めてその姿が目に入ったかのように大袈裟に驚く素振りを見せました。
「おやおや、静もいたんですね。小さくて見えませんでした」
「殴ってよし!」
琴音はここまでさらっと人の逆鱗に触れることができる人を見るのは初めてでした。感心しつつも、時雨とパパの間に割って入ります。
「もう、やめなよ。喧嘩なんてしてる場合じゃないでしょ?」
「そうですね」
と、意外にも時雨の方が早く折れたかと思いきや、唐突に琴音との距離を詰めて、まるで人形を扱うかのように抱きしめました。
「龍壬さんに命を狙われたことで、可愛い狸さんとも会うことができましたし、今回は大目にみることにしましょう」
琴音はなにが起きたのかわからず、時雨の腕の中で真っ赤になって動かなくなっていました。近くにある鏡に映る自分は、まるで清才に抱きしめられているかのようで、それを見ているだけで意識が遠のいていきます。
が、次の瞬間には乾の手によって一気に現実へと引き戻されました。今度は乾に人形のように扱われ、琴音は自由を奪われます。
「うちの娘に気安く触るな。貴様にだけは絶対になにがあろうとやらねえからな!」
「もちろん、譲ってもらおうとは微塵も思っていませんよ」
あたしの意思はどこにあるのだろう。琴音は乾の腕の中で項垂れます。
その様子を傍観していた薙斗。しかし、ついに付き合ってられんと時雨の部屋を後にしようと部屋の襖を開けます。と、そこにはちょうど部屋に入ろうとする涼香が立っていました。
涼香はきょとんとした表情で時雨の室内を眺め、琴音の姿を見つけるなり満面の笑みを浮かべます。
「ああ、琴音ちゃん! おかえりなさい!」
「涼香! 無事だったんだね」
琴音はパパの腕の中から自力で抜け出し、薙斗を押しのけて涼香に飛びつきました。誰が見ても涼香の完全勝利です。しかし、乾は少しもめげていませんでした。乾は琴音に続いて涼香へと詰め寄りその手を取って、
「お嬢さん、うちの娘がお世話になりました。私はこの子の父親で特殊部隊総隊長を担っている、乾と申します。お嬢さんのお名前を伺ってもよろしいですか」
と口説き出します。その一方、しばらく黙り込んでいた静は冷たい視線を乾に向けていました。
「あなたが乾さんですか。わたしは医療部主戦力専属の涼香です。お腹が空いたでしょう。夕飯を準備しますので、どうぞ居間へ」
そう言われると、思い出したかのように琴音の腹は空腹を訴え出しました。
「あたしも手伝うよ。時雨さんと静も行こう」
「僕はもう食べましたから結構ですよ」
「そうですか? じゃあ、静行こう」
「あっ、ちょっと」
琴音は不機嫌そうにむすっとしている静に構わず、手首を掴んで居間へと向かいます。その後ろ姿を見て、時雨は苦笑を浮かべました。
「相変わらず、中身は乙女ですね」
屋敷の中は、琴音が出て行った時と変わらずどこもかしこも綺麗に掃除されています。この屋敷から離れてたった数時間であるため当たり前のはずなのに、琴音はもう何日も足を踏み入れていなかったかのような気がしました。
故に、月明かりに照らされる中庭や、広い玄関、シャンデリアがぶら下がる居間は、琴音にとてつもない安心感を与えます。自分の家ではないのに、家に帰って来たと思ってしまうことが、琴音自身不思議でなりませんでした。
「おかえりなさい」と迎えられたからだろうか。琴音は人から「おかえりなさい」と言われたのは、随分久しぶりだったことに気づきました。
乾の家にいた時は、自由に家から出られない琴音にとって、「おかえりなさい」という言葉は決まって自分自身が口にしていたのです。琴音はいつの間にか自分がこの屋敷の住人の一員になったかのようで、嬉しさのあまり笑顔が隠しきれませんでした。




