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――それから、一週間ほど時を進めてみましょう。
一週間が経つと、琴音の足は完治しました。しかし、龍壬からは相変わらず音沙汰がありません。端末は三日目あたりに充電切れとなってしまいました。
時雨に事情を話し充電器を借り、時雨と出会えたことをメールして連絡を待ったものの、今でさえ連絡はありません。
一方、乾の方は二日目に目が覚めたらしいという報告を薙斗から聞き、それは一安心していたのでした。ただ、それ以外の情報はなく、琴音は引き続き屋敷で世話になっていました。
時雨は相変わらず本ばかりを読み、薙斗は学校と屋敷との往復で、休日は気づけば朝からどこかへ出掛けていて、夜以外では屋敷の中で見掛けません。琴音は朝の六時に屋敷へやって来る涼香の後について、家事を手伝うことで一日を潰していました。
しかし、手伝いが終わってしまうと暇なもので、その日もお昼頃から暇を持て余していました。
時雨に習って書斎の本に手を出してみるも専門書ばかりで理解できず、時雨に話し相手になってもらおうにも邪魔できず、涼香になにか用はあるかと聞いても特にないと言われてしまう始末です。
琴音は家にいた頃と変わらない窮屈さを覚え始めました。
「庭なら出てもいいかな」
自分の部屋で寝転びながら専門書をめくっていた琴音は、ふと思い立って勢いよく立ち上がりました。部屋を出て居間へ向かおうと足を進めると、涼香が中庭の花に水やりをしているのが見えます。
「涼香」
「うふふ、読書は飽きちゃったの?」
「うん。家の外に出てもいい?」
「そうね、屋敷が見える辺りまでならいいわよ」
涼香の了承を得た琴音は、早速玄関から外に出てみました。洗濯物を干す涼香を手伝うために居間の縁側から庭に出たことはあったものの、玄関から外に出るのは初めてでした。
「うわあ」
旅館のような横開きの玄関を出て直ぐの右横に、ぽつぽつと桃色の花をつけた大木が立っていました。その花は桜によく似ているものの、桜より色が濃いように思えます。
屋敷の周りを見渡すと、青々とした草原が広がっていました。その草原を、眩しい新緑の葉をつけた木々がぐるりと囲っています。広い場所だというのに、見渡す限りでは屋敷以外の建物はなにも見当たりません。
まるで、人が住む世界から切り離されたかのような空間でした。
「桃は咲いていますか」
と、縁側の方から声が聞こえてきました。そちらへ回ってみると、時雨が縁側で湯呑を片手に座っています。先ほどどまで昼寝でもしていたのか、眼鏡を掛けておらず着流しが乱れていて、袂から見える厚い胸板が妙に色っぽく見えました。
琴音は目のやり場に困りながらも問い掛けます。
「あれは桃なんですか?」
「そうですよ。あそこは方角的に裏鬼門に当たるんだそうです」
「うらきもん?」
「鬼門と裏鬼門です。陰陽道で鬼が出入りをする不吉な方角として定められているんですよ。だから、魔除けの意味を持つ桃が鬼門と裏鬼門に植えられているんです。かつて平安京でも、大内裏から鬼門と裏鬼門に寺を設置して魔除けをしていたそうですが。知りませんでしたか」
清才がなにかを占う時にそのような話をしていた気はしましたが、琴音自身は陰陽道に無頓着だったためにすっかり忘れてしまっていたようです。
「涼香が前もって花落とし作業をしていましたから、夏にはきっとまたいい桃が穫れますよ」
「えっ、栽培してるんですか」
「涼香が来る前は放置していたんですけどね。勿体ないとか言いながら、自分で栽培法を勉強してました」
掃除もできて料理もできて桃の栽培までできるなんて、どこまで多才なんだろう。琴音は改めて涼香を尊敬しました。そして、夏頃にできるという桃に思いを馳せます。
「早く食べたいなあ」
「それまで、ここにいられるといいですね」
琴音は時雨に言われてから、はっとしました。そうだ、帰らなくちゃいけなかったんだ。
琴音はいつの間にか、この屋敷に住むことが当たり前のように思っていたのです。来て間もない頃はいつも家に帰りたいと思っていたのに、いざ帰らなければいけないとなると、離れがたく感じてしまいます。
「家に帰りたくないんですか」
「帰りたいです。でも、きっと帰ったらもうここには来られないから」
乾は琴音を組織に渡さないため、今まで以上に監視するでしょう。そうなったら、お花見すらもできなくなり、この屋敷の人たちとも会えなくなってしまうかも知れない。そう考えたら、家に帰りたくなくなってきてしまいました。
「琴ちゃん」
ふいに声を掛けられた琴音は、顔を上げて時雨の顔に視線を向けました。時雨はすっと立ち上がるなり、こう言います。
「デートに行きましょうか」
「え?」
「ドライブなんてどうですか」
唐突な誘いに、琴音の脳は理解にまで追いついていませんでした。デートという単語がようやく頭に入ってきた頃、琴音の顔は完熟した桃のような色になっていました。
「でででデートって、あのデートですか!?」
「はい。僕とは嫌ですか?」
「嫌じゃないです!」
「それはよかった。では、用意してくださいね」
時雨は琴音に笑顔を向けると、自分の部屋へ戻って行きました。琴音は締め切られた時雨の部屋の襖を、呆然と見つめます。
「……デート」
琴音はまだ熱い自分の両頬を手で押さえながら、玄関へと向かいました。
自室に戻ると、琴音は涼香が買ってきた洋服たちの前でぺたんと膝をついて考えます。
「デートってどんな恰好して行くんだろ」
この一週間で、琴音の頭の中から時雨と恋仲だという輝夜の存在は、とっくに消え去っていたのでした。
化粧をしない琴音の準備は、異常なほど早く終わりました。着替えて、端末が入ったハンドバッグを持っておしまいです。琴音は早速時雨の部屋の前へ向かいました。と、時雨の声が部屋の中から聞こえてきます。
「……はい、今日動きます。そういうことですから、主戦力の各隊と特殊部隊にも要請を出しておいてください。このことは朱里一士にも伝達してくださいね。……では」
しばらくすると、襖が開いて眼鏡を掛けた洋服姿の時雨が出てきました。上は白いシャツに黒いジャケット、下は春らしいベージュのチノパンという、どこかのファッション雑誌から飛び出てきたかのような装いをしています。
初めて見た時雨の洋装に、琴音は思わず見惚れてしまいました。
「支度はできましたか?」
「あ、はい。誰かと電話していたんですか?」
「薙斗くんと話していました。この時間帯はちょうどお昼休みですから。――涼香に声を掛けてから行きましょうか。涼香も今は座敷で洗濯を畳みながら、テレビを観てると思いますよ」
そう言う時雨について、琴音は座敷へと向かいます。時雨の読みどおり、涼香は座敷でテレビを観ながら洗濯物を畳んでいました。
「涼香、琴ちゃんと少し出てきます。家のことは頼みますよ」
「……随分と急ね」
「薙斗くんには伝えてあります」
「そう。琴音ちゃん……気をつけてね」
「うん、行ってきます」
琴音は心なしか、涼香の様子が少しおかしかったように感じました。なにかを案じているかのような、そんな様子だったのです。少し出掛けるだけだというのに、あそこまで心配するだろうか。琴音は靴を履きながら考えました。
「車がある所までは少し歩きますよ」
「うん」
考えていたってわかるはずがない。琴音はそれよりも、今は時雨とのデートを楽しむことにしました。




