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蔵の中から出ると、琴音は降り注ぐような日光を受けて思わず目を細めました。けれど、空気は中より何百倍も澄んでいます。琴音は鎖を巻いて錠を掛けている時雨を背に、大きく深呼吸をしました。
「よければ、このまま僕が屋敷の中を案内しましょうか」
「いいんですか?」
「ちょうど二階にも用事がありますから」
そう言う時雨に甘えて、琴音は書斎まで戻りました。相変わらず、周りは本で溢れかえっています。時雨は隣の書斎への扉を開きました。そして、その書斎から廊下へと出ます。
「この屋敷は無駄に本が多いですから、書斎が一階だけで二部屋あるんです。ここから壁沿いに真っ直ぐ行くと、通りに沿って空き部屋の洋室と和室があります。その洋室の向かいが薙斗くんの部屋です」
琴音は必要以上にそちら側へは近づかないようにしようと思いながら、時雨の説明を聞いていました。時雨について薙斗の部屋の脇を通ると、左手に木造の壁で仕切られた台所が現れます。中は、台所というより厨房という方が相応しいくらいの広さでした。
「この台所の隣が居間になっています」
ここまで南下してくれば、もう慣れた場所でした。洗面台の前を通って、その隣の二階へと続く階段に辿り着きます。それを上る琴音は、二階の吹き抜け屋根が近くなる度に、青空へと上っているような気持ちになりました。
しかし、二階に着いて回廊を見渡すと、琴音は唖然としました。なんと、回廊の壁際には書斎と同じように所狭しと本棚が並んでいたのです。その本棚の全てに、ぎっしりと本が詰め込まれています。
「本当に本が多いんですね……」
「昔はもっと酷かったんですよ。廊下のそこらじゅうに本が散らばっていて、足の踏み場もないくらいでした」
けれど、今琴音が立っている回廊は、そうだったとは思えないほど綺麗に手入れがされていました。琴音は窓から下の中庭を見下ろします。涼香が育てている色とりどりの花が見えました。
「もしかして、二階を掃除したのって涼香?」
辺りはやはり髪の毛一つ落ちていない上に、手すりさえも埃が被っていません。ここまで徹底的な家事を行う屋敷の人間は、涼香以外に考えられませんでした。
「あの子は家事が生きがいみたいなものですからね」
そう言って、時雨は大して興味が無さそうに回廊を歩き始めました。
「この二階には、和室と洋室それぞれ四部屋空き部屋があります」
先ほど上って来た階段を左右から囲うようにしてあった四つの扉のことを言っているようでした。北側へ回ると、更に二つの扉が待ち構えています。その並びは、見覚えがありました。
「ここも書斎ですか」
二つの扉は、一階の書斎と同じような並びをしていたのです。時雨は「ご名答」というと、左側の扉を開きました。やはり、一階と瓜二つの部屋が現れます。
「少し待っていてくださいね」
そう言うなり、時雨は閲覧席に持っていた本と巻物を置いて、本棚へ向かって行きました。琴音は時雨を待つ間、隣の部屋に続く扉を念のため開けてみます。しかし、同じように同じような部屋が続いているだけでした。琴音は半分呆れながら扉を閉めます。
「確かこの辺りにあった気がしたんですけどねえ」
時雨の呟き声に、琴音は驚愕しました。
「時雨さん、この屋敷にある本の場所、全部覚えてるんですか」
「あらかた読んで自分で分類しましたからね。――ああ、これだ」
時雨が手に取った本を覗き込んでみると、背表紙に大きく書かれた『境界』という文字が目に飛び込んできました。本の状態からして、最近の本のようです。
「境界について書かれた論文集です。読んでみますか?」
琴音はふるふると頭を横に振りました。そこで、琴音はふと昔のことを思い出します。
「昔、龍壬さんにも同じようなこと言われた気がします」
「おや、龍壬さんもなにか研究されていたんですか」
「なにを研究してたのかまでは知らなかったんですけど、龍壬さんの部屋に行くといつもそういう分厚い専門書みたいなのが置いてあったんです。民俗学的な本だったと思います。柳田國男とか、折口信夫とか」
「それは気が合いそうですね」
時雨は琴音と話しながらも、ぺらぺらと論文集をめくっています。喋りながらも論文の内容を理解しているらしい時雨の脳内が、不思議でなりませんでした。
「さて、屋敷の中の案内はこれで全部です。下に戻りましょうか」
本を閉じた時雨は、閲覧席に置いてあった本と巻物を小脇に抱えてこう言います。琴音はそれに賛同し、書斎から出て行こうと扉に手を掛けました。
「ああ、こちらから降りられますよ」
「え?」
時雨の声に振り返ると、時雨は部屋の一番奥にある本棚の一冊を前倒しにしていました。すると、その本棚が壁ごと後退し、そのまま左側へとずれます。現れたのは、一階の書斎に繋がっているであろう階段でした。
「からくり屋敷みたい!」
それを見た琴音は、手を叩いてはしゃぎました。
「前の管理人が趣味で作らせたみたいで、今も残ってるんですよ」
琴音は時雨に続いて、薄暗い階段を下ります。一階の壁に付いているレバーを持ち上げると、一階の壁が開き、二階の壁が閉まる音がしました。どうやら連動しているようです。
着いた先は、一階の書斎でした。書斎から廊下に出る扉を開くと、本棚が元に戻って階段を壁で塞ぎます。琴音は興奮しながらその様子を見ていました。
「このお屋敷、気に入りました」
「それはよかった。――おや、そろそろ涼香が昼食を用意する頃ですね」
時雨は書斎の壁に掛けられた、アンティーク調の時計を見て呟くようにこう言います。時計の針は十一時半辺りを指していました。
「お昼は朝食の残りだって言ってましたから、きっと肉じゃがですね」
「ちなみに夕食はカレーですよ」
時雨は、未来のことを決まりきったようにこう言います。すると、琴音の脳裏に時雨に言われた台詞が過りました。
――過去と未来。僕にはその二つの事象が視えるんです。
「どうかしましたか」
「いえ、あの、時雨さんがさっき言ってたこと、本当なのかなって」
「さっき言ってたこと、ですか?」
琴音は時雨の目を真っ直ぐ見つめました。
「時雨さん、過去と未来の事象が視えるって本当ですか」
時雨は琴音の問い掛けに対し、「ああ、そのことですか」と頷きます。
「もちろん、冗談ですよ。そんなことが可能だったなら、共存陰陽隊から戦争の犠牲者は出ていないと思いませんか」
言われてみれば、確かにそのとおりでした。もし、他人の死が予めわかっていたなら、みすみす死なせるなんてことはしないはずです。
「そんなことを気にしていたんですか」
「清才様は、占いを生業にしていたんです。よく、貴族の未来を占ったりしてました。だから、時雨さんもそういう能力みたいなものがあるのかなって思って」
「占いと能力は全く別物です。占いは未来を視るための行為のことをいい、能力はそのような行為もなしに視ることができる力のことをいいますから」
心なしか、時雨の態度が冷たいように感じられました。くだらないことを聞いて、怒っているのかと思った琴音は、途端に萎縮してしまいます。
「変なことを聞いてしまって、ごめんなさい」
「いえ――ただ、自分で言っておいてなんですが、もし普通の人間が過去や未来を視ることができる能力を持ったとしたら、死にたくなるのでしょうね」
例の憂いを帯びた目でそう言われて、琴音はまた返答に迷います。
もし、自分がそんな能力を持っていたら。知らなくてもいい、思い出したくない辛い過去。わかりきっている暗い未来。
単に辛かったり暗いだけではないだろうけど、明るい未来でも予めわかっているなんて、つまらないことこの上ない。きっと、生きることに飽きてしまうのではないだろうか。
「こんな所でなにしてるの?」
と、扉が開け放たれた書斎の前を、掃除機を持った涼香が通りかかりました。その涼香の声で、琴音の思考は止まります。
「屋敷を案内していました。今終わって戻ってきたんですよ」
「琴音ちゃん、無理はしたら駄目って言ったじゃない。足は平気なの?」
「うん、もうほとんど痛くないから」
「そう、ならいいけど。――そろそろお昼にしましょうか」
「あたしも手伝うよ」
「僕は本を部屋に置いてきます」
そう言うと、時雨は足早に書斎を出て行きました。なぜ、時雨はあんなことを言ったのか。琴音は時雨のことがよくわかりませんでした。




