18歳のハル
ねこオアシスオハナへ、猫を引き取ってほしいという相談が入った。
「高齢の猫ですが飼い主さんが、施設へ入ることになったそうです」
「施設でも一緒に暮らせないんですか?」
「動物と入居できる施設もありますが、どこでも可能というわけではありません。ご家族も引き取れないそうです」
美帆は、飼い主が最後まで面倒を見るべきなのでは、と思った。
けれど、その考えを口にする前に紬が続けた。
「年齢や病気で、これまでできていたことができなくなる場合があります。だからこそ、飼えなくなる前に相談してもらうことが大切なんです」
「置いていかれるよりは、ずっといいですよね」
「ええ。猫も飼い主さんも、次の場所へつながりますから」
店はセティへ任せ、美帆は紬とセンに同行した。デンも行くと言い張ったが、知らない猫がおびえてしまう大きさという理由で留守番になった。
「ワシは普通の猫より礼儀正しいゾ」
「大きさの話です」
紬に扉を閉めらる隙間から、デンは不満そうに尾を振っているのが見えた。
案内された家は、街の外れにある古い平屋だった。
玄関には箱がいくつも積まれ、家具には白い布がかけられている。引っ越しの準備が進んでいるのに、この家で暮らす時間だけが途中で止まったように見えた。
飼い主は、小柄な高齢の女性だった。
「あの子は、奥の部屋にいます」
差し出された紙には、食べていたもの、食事の回数、よく寝る場所、嫌がることが書かれていた。使っていた食器と毛布も、きれいに袋へ入れてある。
「ハルちゃんと言います。18歳になります」
「人には慣れていますか?」
女性は首を横に振った。
「抱くことはできませんでした。でも、静かにしていると隣へ来て、尻尾を私の体へくっつけるんです。そういうときなら、少し撫でさせてくれました」
女性は膝の横を撫でるような仕草をした。
「外にいることが多くて、帰ってきてもすぐ隠れる子でした。それでも、気が向いたときには、ちゃんと隣へ来てくれたんです」
それでも女性は、ハルが帰ってくる時間を知っていた。雨の日に入る場所も、冬に使う毛布も、好きな食事も知っていた。
抱けなくても、いつも膝へ乗らなくても、ふたりにしか分からない近づき方があった。尻尾をそっと触れさせることが、ハルなりの親しさだったのかもしれない。
奥の部屋をのぞくと、家具の隙間で二つの青い目が光った。
淡い色の体に、顔と耳と尾へ灰色の縞がある。ハルは体を低くし、こちらを見たまま動かない。
「ハルちゃん」
飼い主が呼んでも、出てこなかった。
美帆が近づこうとすると、ハルの耳が横へ倒れる。
「そこで止まりましょう」
紬が小声で言った。
センが別の部屋へ続く扉を閉め、逃げ込める場所を増やさないようにする。紬は運搬用の籠を家具の近くへ置き、中へ使い慣れた毛布を入れた。
手を伸ばして引っ張り出さない。大勢で囲まない。大声で名前を呼ばない。
すぐには出てこないと判断し、いったん全員で部屋を離れた。
しばらくして戻ると、ハルは家具の隙間から籠の近くへ移動していた。紬は板を使って戻る方向をそっとふさぎ、ハルを追いつめない速さで籠へ誘導した。
扉が閉まると、飼い主は胸の前で手を組んだ。
「ありがとうございます」
「大切に預かりますね。それとこの子は、これからもハルです」
紬が答えた。
女性は少し涙ぐむ様子で籠へ触れようとして、途中で手を止めた。
「元気でね、ハル」
籠の奥で、青い目が一度だけ瞬いた。
「いつでも、遊びにきてくださいね」
オハナへ戻ったハルは、一般の猫部屋ではなく隔離室へ運ばれた。
動物専門の治療師が来るまで、食器と水、トイレ、隠れる箱を準備する。使用する上着や掃除道具も、ほかの猫用とは分けられていた。
治療師が到着すると部屋の明かりを少し落とし、ハルの呼吸が落ち着くのを待ってから診察を始めた。
体温、体重、心音、呼吸音、脱水。目、鼻、口、耳、皮膚、被毛。
毛を分けると、黒褐色の小さな虫がいくつも動いた。細かな櫛を通すたび、黒い粒が落ちる。湿らせた白い布へ載せると、赤茶色ににじんだ。
「ノミの糞です。かなりの数が寄生しています」
被毛は皮脂と土で固まり、毛の根元まで汚れていた。
「先に洗った方がいいですか?」
「十八歳です。体力と血液の状態を確認してからにしましょう」
治療師は採血を行った。
血球を調べる晶板では、赤血球の数が少なく、中度の貧血が確認された。大量のノミによる長期間の吸血が、原因の一つとして疑われるという。一方、血液解析――地球でいう血液生化学検査では、年齢を考えても目立った異常は見つからなかった。では、肝臓や腎臓、血糖、たんぱく質などに目立った異常は見つからなかった。
「18歳という高齢なのに、異常がないんですか?」
「今回測った項目に、目立つ異常値がないということです。高齢であることも、貧血があることも変わりません。これからの経過を見ます」
猫免疫不全ウイルスと猫白血病ウイルスの検査は、ともに陰性。検便でも異常は見つからなかった。
美帆はほっと息を吐いた。
「それなら、ほかの猫たちと一緒にできますか?」
「まだです」
紬が答えた。
ノミの駆除、体力の回復、貧血の変化。環境が変わったことによる体調不良が起きないかも確認する必要がある。
治療師はハルの年齢と体重に合わせ、猫用の駆虫薬を選んだ。首の後ろの毛を分け、舐められない位置の皮膚へ滴下する。薬の名前、量、日付は記録表へ残した。
籠、寝具、床も清掃する。ノミは猫の体だけでなく、環境へ落ちた卵や幼虫にも対応しなければならない。
汚れた被毛は、一度に完全に洗わなかった。温かい布で、ハルが耐えられる範囲だけ少しずつ拭く。
診察が終わると、ハルは箱の奥へ入り、こちらへ背を向けた。
美帆は食器を置いたが、ハルは動かない。
「食べてくれません」
「今は、人が見ているからでしょう」
全員で部屋を出し、扉を閉めた。
廊下で待っていると、やがて小さく器の動く音が聞こえた。
すぐに開けず、さらに時間を置いてから確認する。食事はきれいになくなっていた。
紬は記録表へ書き込んだ。
『名前、ハル。保護時18歳。食欲あり。人がいない場所で完食』
最後に、もう一行加える。
『名前は変更しない』
箱の奥から、ハルの青い目が二人を見ていた。




