猫だけの場所
ハルが保護されてから、しばらくたった。
ノミの姿は見られなくなり、食事も毎回食べている。貧血については、治療師の指示に従って定期的に血液の状態を確認していた。
人が部屋にいる間、ハルは相変わらず箱の奥から出てこない。
けれど、夜に置いた水は減り、食器は空になる。トイレも使っている。記録の上では、少しずつ新しい生活へ慣れていた。
「今日から、別の場所へ移してみましょう」
紬が言った。
「猫カフェエリアですか?」
「その前に、猫しか入れない場所です」
猫部屋の奥に、壁と同じ色の小さな入口があった。美帆は掃除のときに何度も見ていたが、ただの飾りだと思っていた。
入口は猫一匹が通れる大きさで、デンは顔さえ入らない。
「ワシを差別している」
「デンさんが入れる大きさにしたら、人間も入れてしまいます」
セティが答えた。
「ワシは猫ダゾ」
「あなたはのケット・シーです」
入口の向こうは、人に慣れていない猫たちが安心して過ごすための部屋だった。客は入ることができないが、スタッフは給餌、清掃、健康確認などの世話をするため、裏側の扉から入ることができる。ただし、猫を追い詰めないよう、必要のないときには立ち入らない。
「普段、中が見えなくても大丈夫なんですか?」
「入口の窓から姿や動きは確認できます。ただ、人の視線から完全に離れられる場所も必要なんです」
主に過ごしているのは、福、クー、ムー、よしおの4匹だった。
黒猫の福は、人間の前ではほとんど姿を見せない。それでも、同じように人を怖がる猫たちの間では中心的な存在になっているという。
ハルの入った運搬籠を、猫専用スペースの入口近くへ置いた。
すぐに扉は開けない。まず、互いの匂いと気配を知る時間を作った。
入口の暗がりから、福の緑色の目が見えた。
クーとムーはさらに奥にいるらしく、姿はない。よしおだけが少し離れた場所から籠を見ていた。
ハルは籠の奥で固まっている。
「仲良くできるでしょうか」
「すぐ仲良くなる必要はありません。嫌なら離れられるようにしておきます」
時間をかけて毛布の匂いを交換し、入口を仕切った状態で互いの姿を見せた。威嚇があれば距離を戻す。静かにいられた時間が少しずつ長くなってから、ハルを猫専用スペースへ移した。
籠の扉を開けると、ハルはしばらく動かなかった。
福も近づかない。
やがてハルは体を低くして外へ出ると、最も暗い場所へ走り込んだ。
「逃げちゃった」
「あそこへ逃げられたから大丈夫です」
紬は追わなかった。
食事の時間になると、セティが5匹分の食器を準備した。
福、クー、ムー、よしお、ハル。
名前と量を確認し、猫専用スペースへ運ぶ。セティは裏側の扉から静かに入り、入口近くの食事用の台へ食器を並べた。奥にいる猫を追わず、全員の様子を目で確かめると、すぐに部屋を出た。
食器を置いて人が離れると、すぐに動く気配がした。
福が最初に現れ、その後ろからクーとムーが続く。よしおは周囲を見てから食器へ向かった。
最後にハルが出てきた。
福の少し後ろを通り、自分の食器へ顔を入れる。
五匹とも、すぐに食べ始めた。
「ハル、隠れて食べているんじゃなかったんですね」
美帆は小声で言った。
「安心できる場所で食べているんです」
五匹が食べ終わるまで、美帆たちは入口から離れた。
閉店後、美帆は自分の部屋へ戻ってから、記録帳を店へ置き忘れたことに気づいた。
明日でもいいと思ったが、朝の確認に使うものだ。明かりを持って渡り廊下を戻る。
猫カフェエリアの照明は落とされていた。
扉を開けると、暗がりの中でいくつもの目がこちらを向いた。
昼間には猫専用スペースにいた五匹が、全員外へ出ている。
薄明りの中、目をこらして確認する。クーは高い棚の上。ムーは窓辺。よしおは床へ長く伸びていた。福は部屋の中央に座り、ほかの猫たちが行き交う様子を静かに見ている。
ハルは福のすぐ後ろにいた。
リリーが近くを通っても逃げない。クッキーが椅子へ飛び乗っても、箱へ戻らない。
営業時間中には見たことのない姿だった。
「私たちがいない方が、楽しいのかな」
後ろから来た紬が、美帆のつぶやきを聞いた。
「そういう時間も必要なんです」
「少し、寂しいです」
「分かります。でも、人の前へ出てこないから不幸なわけではありません。私たちが見ていない時間にも、この子たちの暮らしは続いています」
美帆は記録帳だけを取り、猫たちへ近づかなかった。
立ち去ろうとしたとき、ハルがこちらを見た。
逃げ込むかと思った。
けれど福が動かないためか、ハルもその場に残った。
美帆は目を合わせ続けず、体を横へ向けて扉を閉めた。
細くなった隙間から、ハルが福の隣へ座る姿が見えた。
人に懐かなくても、ひとりではない。
ハルには、ハル自身が選べる居場所ができていた。




