保護された黒猫
店の裏口へ、布で覆われた籠が運び込まれた。
「猫を拾ったんです。店へ連れてくれば助けてもらえると聞いて」
籠を抱えていたのは、近所で薬草店を営む現地の女性だった。
布の内側から、低いうなり声が聞こえる。
美帆が手を伸ばそうとすると、紬が静かに止めた。
「まず、ほかの猫から離れた部屋へ運びます」
店の奥には、客も看板猫も入らない小さな部屋があった。
セティが専用の上着と手袋を用意する。食器、トイレ、掃除道具も、猫部屋で使うものとは分けられていた。
「病気と決まったわけではありませんよね?」
「決まっていないから分けるんです」
紬は籠を床へ置き、すぐに扉を開けなかった。
保護されたばかりの猫は、知らない場所、知らない匂い、知らない人に囲まれている。人間が安心させようと触ることが、猫にとってはさらに怖い場合もある。
しばらく静かに待ってから、籠の扉だけを開けた。
中にいたのは、小柄な黒猫だった。
緑色の目を大きく開き、奥へ体を押しつけている。前脚には乾いた泥がついていた。
「出てこない……」
「今は、籠が一番安全だと思っているんです」
紬は水と少量の食事を近くへ置いた。
無理に引き出さない。大きな声を出さない。逃げ込める箱を用意する。食べた量、排泄、呼吸、傷や歩き方を確認する。
「治療師を呼びます。それまでは、触らずに観察しましょう」
この世界には獣医師という呼び方はないが、動物を専門に診る治療師がいるという。
やって来た動物専門の治療師は、黒猫を驚かせないよう部屋の明かりを少し落とした。紬と相談し、必要な範囲だけ体を確認する。
目、鼻、口、耳、皮膚、被毛。心臓と呼吸の音。体温、体重、脱水の有無。腹部や脚へ触れるときも、一度にすべてを済ませようとはせず、黒猫の呼吸が速くなれば手を止めた。
大きな外傷はなかったが、痩せており、脱水も疑われた。
「採血も行います。先住の猫たちと同じ部屋で暮らせるか判断するには、見た目だけでは足りません」
治療師が取り出したのは、細い採血針と、透明な板に小さな魔石を埋め込んだ検査器だった。
「魔法で病気が分かるんですか?」
「魔法は、血液の反応を見やすくするだけです」
紬が答えた。
この世界の血液検査では、採った血を専用の晶板へ少量ずつ載せる。魔石が血球の数や色、血清に含まれる成分の反応を拡大し、治療師が数値として読み取るのだという。
赤血球や白血球、血小板の状態から、貧血や炎症の兆候がないかを調べる。別の試薬では、肝臓や腎臓に関係する数値、血糖、たんぱく質などを確認する。ただし、数値が外れているだけで病名が決まるわけではない。診察や経過と合わせて判断する。
さらに紬は、小さな二枚の判定板を用意した。
「地球の猫白血病ウイルスと、猫免疫不全ウイルスに相当する感染がないかを調べます」
店と一緒に異世界へ来た検査資料をもとに、王宮の研究所と動物治療師たちが再現したものだった。猫白血病ウイルスは抗原、猫免疫不全ウイルスは抗体の反応を調べる。
「これで陰性なら、すぐ一緒にしていいんですか?」
「いいえ。感染して間もない時期には反応が出ないことがあります。陽性でも、その一回だけで決めつけません。必要なら確認検査や、時期を置いた再検査をします。あとはノミダニや虫の駆虫薬をつけるので駆除が終わるまで隔離ね」
検査結果が出るまで、黒猫は別室で過ごすことになった。
治療師は次に、目の細かな櫛で被毛を分けた。黒い毛の間から、小さな黒褐色の粒が落ちる。湿らせた白い布へ置くと、粒の周囲が赤茶色ににじんだ。
「ノミの糞です。マダニが付着していないか、耳の中や指の間も確認します」
「駆除の薬は、地球と同じですか?」
「考え方は同じです。ただし、この国の薬草を適当に塗ることはできません」
猫に安全性が確認された薬を、種類、年齢、体重、健康状態に合わせて治療師が選ぶ。犬用の薬を流用しない。特に猫へ有害となる成分を含む製品や、濃い精油を自己判断で使わない。体についている成虫だけでなく、寝床や布、床へ落ちた卵や幼虫への対策も必要になる。
治療師は黒猫の体重を確かめてから、猫用の駆虫薬を首の後ろへ滴下した。舐められない位置へ、毛ではなく皮膚に付くよう慎重に分けて塗る。
使用した薬の名前、量、日付は記録表へ書かれた。部屋の布類はほかの猫の物と分けて洗い、床と籠も清掃する。世話を終えた人は上着を脱ぎ、手を洗ってから猫部屋へ戻る。
「数日は別室で休ませましょう。検便も行い、お腹の寄生虫がいないか確認します」
治療師が帰った後、美帆は専用の記録表を作った。
食事。水。尿。便。吐いたか。くしゃみ。目やに。歩き方。人が入ったときの反応。
「こんなに見ることがあるんですね」
「全部を一度に完璧に見るのは難しいです。だから項目を決め、複数の人で記録します」
夕方になっても、黒猫は籠から出なかった。
食事にも口をつけていない。
「私がいるから食べないのかな」
美帆が部屋を出て、扉の外で待つ。
しばらくすると、かすかな器の音がした。
すぐ見に行きたくなったが、我慢した。
さらに待ってから紬と確認すると、食事が少し減っていた。
「食べた」
「ええ。最初の一歩ですね」
翌朝、黒猫は籠から箱へ移動していた。
美帆が水を替えていると、箱の穴から緑色の目がこちらを見た。うなり声はない。
「名前、どうしますか?」
「まだ飼い主がいる可能性もあります。近所へ知らせを出して、探している人がいないか確認しましょう」
保護したからといって、すぐ店の猫になるわけではない。
迷子かもしれない。元の家があるかもしれない。治療が必要かもしれない。人やほかの猫と暮らせるかも、時間をかけて見なければならない。
三日後、元の飼い主は見つからなかった。
黒猫は少しずつ食べるようになり、夜になると箱の外へ出るようになった。
薬草店の女性が様子を見に来て、小さな袋を差し出した。
「助けてもらえたお礼です。幸せが来ますように」
袋には、この国で祝い事に使う香草が入っていた。
「福、という名前はどうでしょう」
紬が黒猫へ尋ねる。
猫は返事をしなかった。ただ、水皿の陰から前脚を一歩だけ出した。
「決まりですか?」
「本人の返事は、もう少し待ちましょう」
それから数日、黒猫は記録表の上でだけ『保護猫・仮名福』と呼ばれた。
猫を助けることは、抱きしめて名前をつけることから始まるのではない。
安全な場所を作り、食べるのを待ち、病気を確かめ、元の家を探す。
その間ずっと、急がないことも世話の一つだった。




