第51話 雨の日だけの鉢植え
朝から降り続く雨の中、紬はいつもより少しだけ早く店に来ていた。
晩秋の冷たい雨は、初めの頃に降っていた秋の通り雨とは違い、一日中同じ強さで静かに降り続く。窓ガラスを伝う水の筋を眺めながら、美帆は傘の雫を払って店に入った。
美帆が着いたときには、紬はすでに窓辺の小さな鉢植えに水をやっているところだった。猫のための植物ではない、地味な緑の葉をした鉢だ。
「その鉢、初めて見ました」
「普段は奥にしまっています。今日みたいな日だけ、出すことにしているんです」
「今日みたいな日、というのは」
紬は少し間を置いてから、静かに答えた。
「雨の匂いが、一番強く感じられる日です」
美帆は先日、紬が「雨の匂いで思い出すことがある」と言っていたのを思い出した。
「その鉢と、何か関係があるんですか」
「これは、前にここをやっていた人が育てていたものです。私が引き継いでから、ずっと同じ場所で世話をしています」
紬はそれだけ言うと、鉢の葉についた埃を、指先で丁寧に払った。
「どんな方だったんですか」
「厳しい人でした。でも、猫の話をするときだけは、いつも楽しそうでした」
紬の口調は、いつもと変わらず静かだったが、言葉を選んでいるのが分かった。
「お名前を伺っても」
「呼び名だけなら。私は、先生と呼んでいました」
「今も、その呼び方が身についているんですね」
「はい。他の呼び方を、考えたことがありません」
美帆は「先生」という呼び名から、その人の輪郭を思い描こうとしたが、うまくいかなかった。分かるのは、紬が今も昔と変わらない呼び方を続けているということだけだった。
「今も、どこかにいらっしゃるんですか」
「分かりません。ある日、突然いなくなりました。理由も、行き先も、聞かされていません」
美帆は、それ以上踏み込んでいい話題なのか分からず、黙って紬の手元を見ていた。
「驚かせてしまいましたか」
「いえ。ただ、紬さんにも、そういう過去があったんだと思って」
「誰にでも、話していないことの一つや二つはあります」
紬はそう言うと、鉢を窓辺のいつもの場所に戻した。
「この子だけは、なぜか私によく懐いています。育てた人が同じだからかもしれません」
「植物にも、そういうことがあるんですか」
「分かりません。ただ、そう思うと、少し気が楽になります」
「先生も、雨の日に鉢の世話をしていたんですか」
「はい。雨の音を聞きながら世話をするのが好きだと、よく言っていました」
「それで、紬さんも同じようにしているんですね」
「気づいたら、そうなっていました。真似したつもりはなかったんですが」
窓の外では、雨に濡れた通りを、傘をさした人がゆっくりと歩いていく。店の中の猫たちも、いつもより静かに、それぞれの場所で丸くなっていた。雨の音だけが、部屋の隅々にまで満ちているようだった。
美帆はその鉢を、あらためて見つめた。特別変わったところのない、ただの緑の葉だった。それでも、紬にとっては、雨の日にだけ出す、特別な鉢なのだろう。
「私も、いつかこの鉢の世話を教わってもいいですか」
「まだ早いと思います。でも、いつかは」
紬の返事は控えめだったが、突き放すような響きではなかった。
雨は昼を過ぎても降り続いていた。鉢の葉に落ちる水滴の音が、店の中の静けさに、小さなリズムを刻んでいる。
雨の日は客足が少なく、いつもより時間がゆっくり流れる。紬はその合間を縫って、鉢のそばに座り、古びた道具箱の手入れを始めた。
「その道具箱も、先生のものですか」
「はい。中の道具は、もう半分ほど入れ替えましたが、箱だけは変えていません」
「大事にされているんですね」
「大事、というより、変える理由がないだけです。使えるものを、わざわざ買い替える必要はありません」
紬らしい答えに、美帆は小さく笑った。それでも、その箱を撫でる手つきには、言葉以上の何かがこもっているように見えた。
「今日は、この鉢の話を聞けて良かったです」
「話せることは、まだこれだけです。他は、もう少し先の話になると思います」
紬はそう言って、いつも通りの表情に戻り、他の猫たちの様子を見て回り始めた。
美帆は窓辺の鉢を、もう一度だけ振り返った。今はまだ、その全部を知らなくてもいい。少しずつ、雨の日ごとに、知っていければそれでいいのだと思った。
夕方になっても雨は止まなかった。閉店の支度をしながら、美帆は鉢の葉が、いつの間にか雨粒に濡れていることに気づいた。窓を少しだけ開けて、外の空気を入れていたらしい。
「窓、開けていたんですね」
「ええ。この子には、時々こうして本物の雨に当ててやりたくなるんです」
紬の声は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。美帆はそれ以上何も言わず、静かに窓を閉める紬の横で、傘をたたむ支度を始めた。
雨の匂いを含んだ夜気が、閉じた窓の隙間からわずかに流れ込んでくる。今日聞いた話は、まだほんの断片でしかない。それでも、次に雨が降る日には、もう少しだけ、紬の過去に近づけるかもしれない。美帆はそう思いながら、傘を手に店を出た。




