第50話 湯気の向こうの朝
朝晩の冷え込みが増して、休憩室でも湯を沸かす回数が増えていた。
湯を沸かしていると、白い湯気が窓の冷たいガラスに触れて、細かい水滴に変わった。
その光景を眺めているうちに、美帆はふと、日本にいた頃の台所を思い出した。
まだ母がいた頃の、寒い朝のことだ。母がやかんを火にかけると、同じように湯気が窓を曇らせていた。焼いたパンの匂い、つけっぱなしのテレビの音、まだ眠そうな自分の声。玄関に置かれた、体に比べて大きすぎるランドセルの色まで、記憶の中では妙にはっきりしている。何気ない朝の光景が、こんな遠い場所で、こんなに急に蘇ってくるとは思わなかった。
母は無口な人で、朝の挨拶以外に多くを話す方ではなかった。それでも、湯気の向こうでこちらを振り返る仕草だけは、はっきりと覚えている。あの頃は気にも留めなかった小さな仕草が、こんなに鮮明に残っているとは思わなかった。
美帆はしばらく手を止めたまま、湯気の形が崩れては新しく立ち上るのを、ぼんやりと眺め続けていた。
「どうかしたの?」
「あ、すみません、すぐに」
美帆は慌てて茶葉を用意したが、手つきがいつもよりぎこちなかった。紬はそれに気づいたようだったが、何も聞かなかった。
「窓が曇っていますね」
「はい。湯気で、ちょっと」
紬はそれだけ言うと、椅子に座って待った。急かす様子はなかった。
お茶を淹れ終え、湯気の立つ器を差し出すと、紬はゆっくりと一口飲んでから、窓の外に目をやった。
「今日は、いつもより静かですね」
「そうですか」
「動きが、少しゆっくりです」
図星を突かれて、美帆は小さく笑った。
「実は、湯気を見ていたら、日本にいた頃の朝を思い出していました」
「そうでしたか」
「大したことじゃないんです。ただ、小さい頃、母が朝にお湯を沸かしていた台所を思い出しただけで」
紬は急かすでもなく、ただ静かに聞いていた。
「懐かしいと思うことは、悪いことではありません」
「寂しくなったりは、しないんですか」
「寂しくなるときもあります。でも、忘れてしまうより、思い出せる方がいいと私は思っています」
美帆は、鞄の底の手帳に挟んだままの、両親と三人で写った小さな写真のことを思い出した。こちらへ来てから、一度も手帳を開いていない。開けば、色々なことを思い出してしまいそうで、なんとなく避けていた。
「実は、写真を一枚だけ持ってきているんです。でも、まだ見返せていなくて」
「無理に見なくてもいいと思います。見たくなったときに見れば、それで十分です」
「見ないままでいるのは、良くないことなんでしょうか」
「良いも悪いもないですよ。見たくなったら見ればいいし、まだなら、しまっておけばいいんです」
美帆は自分の湯呑みを両手で包み、立ち上る湯気をもう一度見つめた。
「紬さんにも、そういう瞬間があるんですか」
「あります。雨の匂いで思い出すことがあります」
紬はそれ以上を語らず、また一口お茶を飲んだ。深く尋ねる雰囲気ではなかったので、美帆もそれ以上は聞かなかった。
ただ、紬の横顔にも、いつもより少しだけ遠くを見るような色が浮かんでいるように見えた。それが何なのか、今の美帆には分からなかったし、無理に知ろうとも思わなかった。
窓の外では、通りを歩く人々が、少し肩をすくめながら足早に過ぎていく。この世界の冷え込みも、美帆が知っている季節の変わり目と、どこか似た匂いがした。
棚の上では、ルーが窓の結露をぼんやりと眺めていた。人の記憶とは関係なく、猫たちはただ、目の前の季節をそのまま受け止めているように見える。それが少しだけ、美帆には羨ましく感じられた。
「湯気を見るたびに、思い出すんでしょうか」
「かもしれませんね。でも、思い出していても、今淹れたお茶はちゃんと温かいですから」
「向こうの記憶より、今の方が大事だということですか」
「どっちが大事、ということはないですよ。ただ、せっかく淹れてくれたお茶なので、温かいうちに飲んでほしいだけです」
紬はそう言って、湯呑みをもう一度両手で包み直した。美帆もそれに倣って、自分の湯呑みを握り直す。
温かさは、思い出の中の台所と同じくらい、確かにそこにあった。
休憩を終えて店に戻ると、猫たちはいつも通り、思い思いの場所で丸くなっていた。窓の外の景色も、変わらずそこにあった。
ただ、美帆の中では、遠い台所の記憶が、少しだけ柔らかく形を変えて、この店の記憶と隣り合わせに置かれたような気がした。
その夜、家に帰ってから、美帆は鞄の底から手帳を取り出して、少しだけ手に取ってみた。すぐに開くことはしなかったが、以前よりも、開くことへの怖さは薄れているような気がした。
いつか見返す日が来たら、そのときはきっと、今日の湯気の記憶も一緒に思い出すのだろう。美帆はそう思いながら、手帳をそっと鞄の底に戻した。急ぐ必要は、どこにもなかった。
窓の外では、また新しい湯気が誰かの家の煙突から立ち上っていた。遠くの記憶と、今いる場所の温かさは、対立するものではなく、同じ胸の中に、並んで収まっているだけなのかもしれない。美帆はそんなことを思いながら、静かに布団に入った。




