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48/53

第48話 六十グラムから

【タイトル】

第48話 三つの名前


【公開状態】

下書き


【作成日時】

2026-10-18 14:36:32(+09:00)


【更新日時】

2026-10-18 14:43:35(+09:00)


【文字数】

1,820文字


【本文(75行)】

 朝、家の小部屋の戸を開けると、木箱の縁に、小さな前足が二つ掛かっていた。


 黒い方の子猫が、箱から身を乗り出そうとしている。後ろ足が布を蹴るたび、体がぐらりと揺れた。三毛の方は、その下で、黒い子のしっぽにじゃれついている。


「だめだよ、落ちちゃうから」


 美帆がそっと抱き上げて箱に戻すと、黒い子猫は不満そうに、細い声で鳴いた。


 倉庫の前で保護したあの朝から、ひと月半が過ぎていた。その間も店の仕事は休まず、夜中のミルクは紬と交代で続けてきた。


 閉じていた目はいつの間にか開き、青みがかった灰色の瞳で、部屋の中をきょろきょろと見回すようになった。ふらつきながらも自分の足で歩き、箱の隅に置いた小さなトイレも、少しずつ使えるようになっている。


 六十グラムしかなかった体は、三毛の子が四百五十グラム、黒い子が四百グラムになった。数字だけ見れば、普通に生まれた子猫には、まだ少し届かない。それでも、記録帳に並ぶ数字は、減ったり止まることはなくなった。


「おはようございます、美帆様。今朝の湯は、もう用意できております」


 ミュルネが、温めた湯の入った器を持ってきた。この一か月半、ミュルネは子猫の箱の温度を一度も下げなかった。今では湯の瓶も一本に減り、箱の中に、熱いところと涼しいところを作るだけで十分になっている。


 朝の食事は、ミルクにふやかしたごはんを少しだけ混ぜたものだった。三毛の子は皿に顔ごと突っ込み、鼻の頭を汚しながら夢中で食べる。黒い子は匂いを嗅いでは顔を上げ、美帆の指についたミルクの方を舐めたがった。


「あなたは、まだミルクの方がいいんだね」


 急がなくていい、と紬には言われていた。食べる量は、体の大きさと同じで、一匹ずつ違う。


 隣の部屋からは、静かな物音がしていた。


 キジトラの母猫は、あの一週間鳴き続けたあと、少しずつ落ち着いていった。今では食事をきれいに平らげ、窓辺の日だまりで丸くなっている時間が長い。子猫たちの世話をすることは、とうとうなかった。それでも、子猫の声が聞こえると、仕切りの向こうで耳だけがそちらを向く。


「聞こえてるんだよね」


 美帆が仕切り越しに声をかけると、母猫は片目を開け、またすぐに閉じた。


 店へ行く前、紬が小部屋に顔を出した。手には、記録帳と、新しい用紙が三枚。


「今日の午後、治療師さんが来てくださいます。三匹そろっての健康確認です」


 用紙の一番上には「名前」の欄があった。三枚とも、そこだけが空いている。


「そろそろ、名前を決めましょう」


 美帆は思わず紬の顔を見た。保護したばかりの頃、名前の話になったとき、紬は「もう少し様子を見てからにしましょう」と言っていた。あの頃は、その言葉の意味を、聞き返すことができなかった。


「もう、大丈夫だと思っていいんですね」


「まだ安心しきってはいけません。でも、この子たちは、ちゃんと明日を待てる体になりました。呼ぶ名前があった方が、これからの記録もつけやすいです」


 二人で、しばらく三匹を眺めた。窓辺で日を浴びる母猫。皿の前から動かない三毛。箱の縁に、また前足を掛けようとしている黒い子。


 名前は、思っていたよりすんなりと決まった。


 母猫は、サン。


 三毛の子は、ミネ。


 黒い子は、タカ。


 紬が用紙の空欄に、一枚ずつ名前を書き入れていく。美帆はその字を目で追いながら、一つずつ、声に出して呼んでみた。


「サン。ミネ。タカ」


 ミネは皿から顔を上げもしなかった。タカは、自分が呼ばれたことなど知らない顔で、また箱の縁によじ登ろうとしている。仕切りの向こうで、サンの耳が、ほんの少しだけ動いた。


「誰も返事してくれませんね」


「そのうち、覚えます。名前は、呼ばれ続けて、少しずつ自分のものになっていくんです」


 午後、治療師は三匹を順に診て、記録帳に短く書き込んだ。サンは体重が戻り、毛づやも良くなっている。ミネとタカは、小さいながらも心音がしっかりしていて、お腹の具合も悪くない。


「よく、ここまで育てましたね」


 治療師の言葉に、美帆は思わず紬と顔を見合わせた。紬は何も言わなかったが、口元がわずかに緩んでいた。


 その夜、美帆は記録帳の新しいページに、三つの名前を書いた。これまで「三毛の子」「黒い子」と書いてきた欄に、今日からは名前が入る。


 あの朝、倉庫の前で鳴いていた二つの小さな声に、ようやく呼び名がついた。美帆はページを閉じる前に、もう一度だけ、その三つの名前を指でなぞった。

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