第43話 入道雲の名残
昼過ぎ、水を替えに窓辺へ寄った美帆は、空に大きな雲があるのに気づいた。
もこもこと盛り上がった白い雲は、どこか夏の名残を思わせる形をしていた。
「紬さん、あの雲、夏っぽくないですか」
紬も窓に近づき、しばらく空を見上げた。
「本当ですね。この時期には珍しい形です」
「もう秋なのに、まだ夏の雲が出るんですね」
「季節の変わり目には、時々こういうことがあります。空だけが、少し前の季節を思い出しているみたいに」
美帆はその表現が気に入り、しばらく雲の形を目で追った。輪郭がゆっくりと崩れ、やがて薄く引き伸ばされていく。
「入道雲みたいですね。地球の夏を思い出します」
「ええ、懐かしいですね。こちらの人たちは、夏の名残雲と呼んでいます」
「名残雲……。こっちの呼び方も、すてきですね」
「暑さが去ったあとに、こうして時々姿を見せる雲です。長くは続きません」
「毎年、見られるものなんですか」
「見られる年もあれば、見られない年もあります。今年は運がいいのかもしれません」
紬の口調はいつも通り静かだったが、その言葉には、珍しいものを見られた喜びが、わずかににじんでいるように聞こえた。
窓際にいたテプが、雲の動きにつられるように顔を上げた。特に何をするでもなく、ただ空を眺めているだけだったが、その仕草に美帆はなんとなく心が和んだ。
「テプも、空を見るのが好きなんですね」
「暇なときは、たいてい窓の外を見ています。何を考えているかは分かりませんが」
窓際のハンモックでも、ジョーが同じ雲を見上げていた。ベスはまだ眠ったままだったが、ジョーだけは、しばらく雲の動きを目で追い続けている。
「ジョーも、雲が気になるんでしょうか」
「動くものには、たいてい反応します。理由までは分かりませんが」
美帆は雲を見ながら、地球で過ごした最後の夏のことを思い出した。汗ばむ帰り道、遠くに見えた同じような雲。蝉の声、アスファルトの照り返し、麦茶の匂い。あの頃は、まさか異世界でも同じ形の雲を見ることになるとは、思いもしなかった。
「あの雲を見ていると、少し前の季節が恋しくなります」
「懐かしむことは、悪いことではありません。ただ、今の季節にも、ちゃんと目を向けてあげてください」
紬の言葉に、美帆は頷いた。名残を惜しむことと、今を大事にすることは、両立できるはずだった。
「紬さんは、名残雲を見て、何か思い出すことはあるんですか」
「あります。ただ、それはまだ、うまく言葉にできません」
紬はそう言って、それ以上は語らなかった。美帆もそれ以上は聞かず、二人でしばらく黙って空を見上げていた。
夕方になると、名残雲はすっかり姿を消し、代わりに秋らしい薄い雲が空全体に広がっていた。
「もう、あの雲はなくなったんですね」
「はい。名残雲は、長くは留まりません。だからこそ、見られた日は少し得をした気分になります」
美帆は窓の外の、今日の空をもう一度見上げた。夏の名残はもうどこにもなかったが、その代わりに、秋らしい静かな色が空を満たしていた。
棚の上では、ハンが相変わらず外を眺めていた。夏の雲があった日も、今日のような秋の空の日も、ハンにとってはきっと同じ、いつもの窓の外の景色に過ぎないのだろう。それでも美帆には、今日という日だけの、特別な空だったように思えた。
「また来年も、あの雲を見られるでしょうか」
「分かりません。だからこそ、見られた日のことを、覚えておく価値があるんだと思います」
美帆は記録帳の隅に、小さく書き添えた。「名残雲、久しぶりに見る」。来年、同じ時期にこのページを開いたとき、今日のことを思い出せるように、丁寧に文字を綴った。




