第42話 冬毛のはじまり
ブラシを通すたび、いつもより多くの毛が絡みついてくることに、美帆は気づいた。
「紬さん、今日、やけに毛が抜けるんですけど」
「この時期は、そういうものです。夏毛から冬毛に変わる途中なんです」
紬はそう言いながら、自分が手入れしていたリリーの毛をブラシから取り除いた。抜けた毛は、夏の間よりも明らかに量が多い。
「猫にも、衣替えがあるんですね」
「はい。人間ほどはっきりしていませんが、季節ごとに毛の質が変わります」
美帆は手元のブラシを見つめた。細くて短い毛の下から、少しふっくらとした産毛のようなものが覗いている。
「これが、冬毛ですか」
「そうです。まだ生え始めたばかりですが、これから少しずつ厚みが増していきます」
棚の上では、長毛のルーが特に念入りに毛づくろいをしていた。普段より時間をかけている様子に、美帆は思わず声をかけた。
「ルー、今日はいつもより丁寧ですね」
「長毛の子は、生え変わりの時期に毛玉ができやすいんです。放っておくと絡まってしまうので」
紬はルーの隣に座り、丁寧に櫛を入れ始めた。夏にはブラシに猫パンチを返していたルーが、今日は小さく尻尾を揺らしただけで、されるがままになっている。
「毛玉ができると、どうなるんですか」
「放置すると、皮膚を引っ張って痛みの原因になります。この時期は、いつもより多めにブラッシングの時間を取っています」
「短毛の子は、そこまで気にしなくていいんですか」
「短毛でも、抜け毛の量自体は増えます。ただ、絡まりにくいので、頻度は少し減らせます」
紬はそう言いながら、ルーの脇の下にできかけていた小さな毛玉を、根気よくほぐしていった。急がず、しかし手を止めることもない、いつもの丁寧さだった。
「痛くないですか」
「痛みが出そうな箇所は、無理に引っ張らず、少しずつほどきます。今日で全部は終わりませんが、それでいいんです」
美帆はクッキーの方にも手を伸ばした。老猫の毛は薄く、以前より抜ける量も少ないように見えた。
「クッキーは、あまり変わらないみたいですね」
「年を重ねると、毛の生え変わりも緩やかになります。若い子ほど、はっきり変化が出ます」
午後になると、店の隅に集めた抜け毛が、ちょっとした山になっていた。
「これ、毎年こんなに集まるんですか」
「はい。この時期だけは、掃除の回数を増やしています」
窓際のハンモックでは、ジョーとベスも普段より念入りに体を舐めていた。近づいて確かめることはできないが、遠目にも毛の色合いが、少しふっくらして見える。
「あの二匹も、冬毛に変わってきているんですね」
「はい。触れられない分、遠くからの観察が頼りになります」
「毛玉ができていても、気づけないんじゃないですか」
「そこが難しいところです。せめて、毛づくろいの様子だけは、毎日欠かさず見ています」
夕方、掃除を終えた美帆は、集めた抜け毛の量に驚きながら、記録帳にその日の様子を書き留めた。「毛の生え変わり、例年通り始まる」。たった一行だが、これもまた、季節が動いている確かな証拠だった。
家に帰ると、ピピやきなこもちの毛も、心なしかいつもよりふわりとして見えた。抱き上げると、以前より柔らかく、あたたかい感触が手のひらに伝わってくる。
「この子たちも、冬支度を始めてるんですね」
誰に言うともなくつぶやくと、腕の中のピピが小さく喉を鳴らした。季節は、猫たちの体の中でも、確かに少しずつ進んでいた。
「ミュルネ、この子たちの毛も、ブラッシングした方がいいですか」
「はい。よろしければ、わたくしがお教えいたします」
その夜、美帆はミュルネに教わりながら、ピピとヘキの毛を丁寧に梳いた。店で覚えた手順が、家でもそのまま役に立つことに、少しだけ嬉しさを感じた。




