第41話 栗と焼き菓子
厨房から、いつもと違う甘い匂いが漂ってきた。
「ガルネオさん、今日は何を焼いてるんですか」
「栗の焼き菓子だ。この時期にしか作らない」
ガルネオはそう言って、焼き上がったばかりの菓子を天板から取り出した。表面に、艶のある栗がいくつも埋め込まれている。
「毎年、この時期だけなんですか」
「栗が出回るのが、今の時期だけだからな。旬を逃すと、来年まで待つことになる」
「この国では、昔から栗を食べていたんですか」
「いや。俺が子どもの頃は、誰も食わなかった」
ガルネオは、手を止めずに答えた。
「森に行けば、秋には足の踏み場もないくらい落ちてたがな。外はとげだらけで、うっかり踏めば足の裏が血だらけになる。とげを剥いても、中はまた硬い皮だ。獣も避けて通るような実を、わざわざ拾う物好きはいなかった」
「じゃあ、どうして食べるようになったんですか」
「陛下だ」
短い答えに、美帆は思わず紬の方を見た。紬は、少し懐かしそうに笑っていた。
「悠一郎さんが、この国に来たばかりの頃の話です。森で落ちている実を見つけて、『これは栗だ、食べられる』と言ったそうです。地球では、秋になると誰でも食べていたものですから」
「最初は、誰も信じなかったそうだ。とげの塊を食い物だと言う若い男がいる、ってな」
ガルネオは鼻を鳴らした。
「だから陛下は、自分で拾ってきて、イガを靴で踏んで開いて、硬い皮に切れ目を入れて、火で焼いてみせた。それを市場の真ん中で配ったんだと。それから少しずつ食う奴が増えて、今じゃ秋になれば、どの家でも栗を焼く」
「栗っていう呼び方も、そのときからなんですか」
「ああ。それまでは名前すらなかった。『とげの実』とか、そんな呼び方だったらしい」
美帆は、天板の上で艶を帯びた栗を見つめた。三十年前、まだ王様でもなかった一人の青年が、地球の秋を懐かしんで拾い上げた実。それが今、この国の秋の味になっている。
「栗みたいなものって、ほかにもあるんですか」
「ありますよ。この世界にもともとあったものに、地球での食べ方や使い方が広まった、というのはけっこう多いんです」
「そうなんですね。食べ物以外にも私たちが広めたものってあるのですか?」
「ありますよ。たとえば、猫の世話の仕方もそうです。猫はもともとこの世界にもいましたけど、食べたものや体重を記録したり、病気の子を治療師さんに診せたりするやり方は、地球から来た人たちが少しずつ広めてきたものなんです」
「じゃあ、私が毎日つけている記録帳も……」
「ええ。こちらに来るときは、みんな、ほとんど何も持っていませんから。持ってこられるのは、知っていることだけなんです。美帆さんも、もう広める側の一人ですよ」
紬はそう言って、天板の栗に目を落とした。
「栗も、木はずっと前からこの森にありました。変わったのは、それを見る人の目の方です」
美帆は少し不思議な気持ちになった。同じものがそこにあっても、使い方を知らなければ、ただのとげの塊でしかない。自分たちが知っている小さなことも、いつかこの世界の何かと結びついて、誰かにとって当たり前の季節の味になるのかもしれない。
紬が味見を頼まれ、一口食べてから小さく頷いた。
「今年もちゃんと甘いですね」
「当たり前だ。手を抜いたことは一度もない」
美帆にも一切れ渡された。口に入れると、外側はさくりと軽く、中の栗はほくほくとした食感だった。
「おいしいです。栗の味がしっかりしてますね」
「だろう。栗は皮を剥くのが一番の手間だ。今日は朝からずっと剥いていた」
ガルネオは疲れた様子も見せず、次の生地を天板に並べていく。
「猫たちには、関係ない話ですよね」
「そうだな。栗は猫の食い物じゃない。だが、匂いには反応する子もいる」
実際、厨房に近い棚にいたテプが、しきりに鼻を動かしていた。クッキーも足元をうろつき、何かを期待するような目でガルネオを見上げている。
「あげられないのに、匂いだけ嗅がせるのは、可哀想じゃないですか」
「匂いを楽しむだけの子もいる。無理にやらなければ、それも一つの経験だ」
窓際のハンモックでも、ベスが鼻をひくつかせていた。ジョーは我関せずという様子で丸くなったままだったが、ベスだけは、しばらく厨房の方角を見つめ続けていた。
「ベスは、甘い匂いが好きなんですかね」
「好みは分かりませんが、興味はあるようですね」
紬がその言葉を補うように続けた。
「食べられないものでも、匂いや音を楽しむことはできます。人と同じです」
焼き菓子は、その日のうちに常連客へも振る舞われた。季節限定と聞いた客たちは、口々に感想を言いながら、いつもより長く店に留まっていった。
「毎年これを楽しみに来る方もいるんです」
「毎年ってことは、去年もこの味だったんですか」
「基本の味は変えていません。ただ、栗の出来によって、少しだけ甘さが変わります」
「今年は、去年より甘いんですか」
「わずかにですが。ガルネオさんは、その違いも味見だけで分かるそうです」
「舌が覚えているだけだ。大したことじゃない」
ガルネオは謙遜するように言ったが、その手は迷いなく次の生地を成形していた。
美帆はもう一切れをゆっくり味わいながら、この味を来年も、再来年も食べられるだろうかと考えた。同じ店で、同じ人が作る、同じような菓子。それでも、まったく同じ一切れは、二度と作られないのかもしれない。
夕方、店じまいのあと、ガルネオは余った生地を丸めて、簡単な焼き菓子をもう一枚作った。
「これは、誰の分ですか」
「賄い用だ。売り物にならない半端な生地は、こうして食う」
「もったいないから、じゃないんですね」
「もったいないのもあるが、それだけじゃない。半端な生地にも、ちゃんと味はあるからな」
従業員だけで囲む食卓に、焼きたての菓子が並んだ。形は不揃いだったが、味は変わらない。
「売り物じゃない方が、なんだか特別な気がします」
「気のせいだ。味は同じだからな」
ガルネオはぶっきらぼうにそう言ったが、口元はどこか満足げだった。美帆はその表情に、この時期だけの、ちょっとした楽しみを見つけた気がした。
「来年も、同じ時期に作ってくれますか」
「栗が出れば、当然な」
その素っ気ない返事が、かえって美帆には心強く感じられた。来年のこの時期にも、きっとまた同じ匂いが厨房から漂ってくるのだろう。そう思うと、まだ来ぬ来年が、少しだけ楽しみになった。




