第40話 新しいお客様
開店してすぐ、見覚えのない客が扉を開けた。
旅装束のまま、荷物を抱えた若い女性だった。背丈は美帆の肩ほどしかない。顔も手も、やわらかそうなクリーム色の毛に覆われていて、頭の両脇には長い毛の垂れた耳が下がっている。鼻先は短く、丸い顔の真ん中で、黒く濡れたような目がきょろきょろと店の中を見回していた。
獣人のお客様だった。耳だけが犬のようなセンとは違い、その姿は人より犬に近い。この世界に来てしばらく経つが、ここまで獣の姿に近い人を、美帆は間近で見たことがなかった。
店内を見渡す様子には、常連客にはない戸惑いがある。旅装束の裾からのぞいたふさふさの尻尾も、落ち着かない様子で小さく揺れていた。
「いらっしゃいませ」
紬が声をかけると、女性は少しほっとしたように肩を下げた。
「あの、猫カフェだと聞いて来たんですけど、初めてで、勝手が分からなくて」
「大丈夫ですよ。まずはこちらの席にどうぞ」
「あの……私みたいなのが入っても、猫たち、怖がりませんか」
女性は、垂れた耳をさらに伏せるようにして聞いた。
「普段からセンという犬の耳をした者が店にいるので、慣れている子も多いんです。ただ、初めての匂いに驚く子もいます。猫の部屋に入る前に手を洗っていただいて、あとは猫の方から近づいてくるのを待ってもらえれば、十分です」
女性は安心したように、何度も頷いた。
紬はいつも通りの落ち着いた声で、メニューと注意事項をゆっくり説明していく。美帆はその様子を、少し離れた場所から見ていた。初めて自分がこの店に来たときのやり取りと、重なるところが多かった。
「今から入っても、大丈夫ですか」
「もちろんです。ただ、眠っている子は起こさないようにお願いします」
「猫たちに、触ってもいいんでしょうか」
「触りたい様子の子には、触っていただいて構いません。嫌がる素振りを見せたら、そっと離れてください」
女性は緊張した面持ちで頷き、そっと猫の部屋へ足を踏み入れた。
最初に近づいてきたのはクッキーだった。慣れた様子で膝に乗ろうとする老猫に、女性は驚きながらも笑顔を見せた。
その途端、女性の尻尾が勢いよく左右に振れはじめた。椅子の脚に当たって、ぱたぱたと音を立てる。クッキーの耳が、ぴくりと動いた。
「あっ、ごめんなさい」
女性は慌てて両手で自分の尻尾を押さえた。嬉しいと、どうしても勝手に動いてしまうらしい。
「大きな動きや音には、驚く子もいますから。気にかけていただいて、ありがとうございます」
紬がそう言うと、女性は尻尾を膝の脇に抱え込んだまま、小さく笑った。クッキーは少しだけ様子をうかがってから、何事もなかったように膝の上で丸くなった。
「この子、人懐っこいんですね」
「クッキーは、初めての方によく懐きます」
美帆は少し離れた場所で、洗い物をしながらその様子を眺めていた。自分が初めてこの部屋に入ったときも、同じようにクッキーが真っ先に近づいてきたことを思い出す。
「美帆さんも、あんな風に緊張していたんですね」
紬に声をかけられ、美帆は少し照れくさくなった。
「覚えてるんですか」
「もちろんです。初めての方は、たいてい同じような顔をしています」
しばらくすると、女性はハンの前で足を止めた。少し距離を置いて眺めるだけで、無理に近づこうとはしない。ハンは棚の上から鼻先を女性の方へ向け、嗅ぎ慣れない匂いを確かめるように、しばらくひげを動かしていた。
やがてハンは、軽い音を立てて棚から降りてきた。まっすぐ女性の足元まで歩いてくると、くるりと向きを変え、その膝の前におしりを向けて座り込む。それから首だけで振り返り、じっと女性の顔を見上げた。
「え……あの、これは」
女性は両手を宙に浮かせたまま、困ったように紬を見た。尻尾が、また勝手に揺れはじめている。
「しっぽの付け根を、ぽんぽんしてほしいんです」
「ぽんぽん、ですか」
「はい。手のひらで、軽く叩くように。ハンは、それが大好きなんです」
女性はおそるおそる、ハンのしっぽの付け根に手を置いた。言われた通りに、ぽん、ぽん、と軽く叩く。ハンは腰をぐっと持ち上げ、しっぽをぴんと立てた。もっと、と言うように、女性の手の方へおしりを押しつけてくる。
「喜んでます……よね?」
「はい。とても」
女性の顔が、ぱっと明るくなった。さっきまで猫を怖がらせないかと気にしていたのが、嘘のようだった。
「私みたいなのにも、来てくれるんですね」
「ハンは、相手を選びません。ぽんぽんしてくれそうな人がいれば、誰のところにでも行きます」
紬の言葉どおり、しばらく叩いてもらって満足したハンは、今度は隣の席の常連客の足元へ移り、同じようにおしりを向けて座り込んだ。常連客は慣れた手つきで、すぐにぽんぽんと応えている。
女性はその様子を、少し名残惜しそうに、けれど嬉しそうに見送っていた。美帆は思わず笑ってしまった。ハンにとっては、初めての客も常連客も、同じ「ぽんぽんしてくれる人」なのだろう。
窓際のハンモックにいたジョーとベスにも、女性はちらりと目をやった。近づこうとはせず、少し離れた場所からその存在を確かめるように見つめている。
「あの二匹は、少し距離があるみたいですね」
「はい。あの子たちには、あの子たちの間合いがあります」
「無理に縮めなくてもいいんですね」
「はい。見ているだけの関係も、立派な関係の一つです」
女性はその言葉に納得したように頷き、それ以上は近づかなかった。
女性は結局、一時間ほど店で過ごし、何度か写真を撮ってから席を立った。
「また来てもいいですか」
「もちろんです。またお待ちしています」
女性が店を出ていくと、美帆はふと、自分の初日のことを思い出した。あのときは緊張と不安でいっぱいだったが、今こうして新しい客を迎える側になっている。
「新しいお客様が来るたびに、少し昔を思い出します」
「私もです。初めての方を迎えるたびに、この店を始めた頃のことを思い出します」
「紬さんにも、そんな頃があったんですね」
「ええ。誰もが、最初は初めての客です。それは、猫たちにとっても、私たちにとっても同じです」
夕方、閉店の支度をしながら、美帆はその日の記録帳に、新しい客の来店を短く書き添えた。特別な出来事があったわけではないが、誰かにとっての最初の一日が、今日ここにあったのだと思うと、少しだけ胸が温かくなった。
窓の外では、女性が来た道を振り返るようにして、ゆっくりと角を曲がっていくのが見えた。クリーム色の尻尾が、角の向こうへ消える最後まで、小さく揺れていた。次に来るときには、もう少し慣れた顔で、この扉を開けるのだろう。美帆はそう思いながら、明かりを一つ落とした。




