三十年前の2027年
王様に会う。
その言葉を聞いてから、美帆は朝食の味がほとんど分からなかった。
「私、制服じゃなくて大丈夫でしょうか」
「この国の王様は、服装で人を叱る方ではありませんよ」
紬はそう言いながら、美帆の襟を直した。
借りた服は、白いブラウスと紺色のスカートだった。見慣れた形に近いだけで、少し安心する。
店の前には屋根つきの馬車が待っていた。ただし、車体を引いているのは馬ではない。額に短い角があり、鹿よりも大きな灰色の獣が二頭並んでいる。
「おとなしいから、触っても平気ダゾ」
デンが言った。
「今日は触りません」
「昨日より慎重になったナ」
猫に教えられたことを、別の動物にも当てはめただけだ。知らない動物へ勝手に手を出さない。飼い主や世話をする人へ先に尋ねる。飼われている動物でもなにがあるかわからないし、飼い主さんたちへの配慮だ。
美帆と紬が馬車へ乗り、デンは御者台の隣へ飛び乗った。
王宮は店から見えていた白い建物だった。
高い壁や兵士を見て緊張したが、通された部屋は意外に質素だった。大きな机と本棚、来客用の長椅子。窓辺には猫用らしい丸い籠まで置かれている。
「やっと会えたな」
立ち上がった国王は、日本語でそう言った。
五十代半ばに見える男性だった。黒い髪には白いものが交じっている。立派な上着を着ていなければ、学校の先生だと言われても信じただろう。
「相馬悠一郎です。こちらでは長い名前になっているけれど、今はそれだけ覚えてくれればいい」
「高瀬美帆です。お初にお目にかかります」
美帆が頭を下げると、悠一郎は少し笑った。
「高校生にしては礼儀正しいな。」
彼が地球を離れたのは、二十四歳のときだった。
大学院から帰る途中、東京駅の階段を上ったはずが、この世界の古い神殿へ出た。帰る方法を探すうちに王家の調査へ協力するようになり、さまざまな事情が重なって、先代国王の娘と結婚したという。
「では、地球を離れたのは1997年ですか?」
美帆が尋ねると、悠一郎は首を横に振った。
「2027年4月8日。午後5時二22分。今でも覚えている」
紬が持参した記録を机へ置く。
「私が店ごと転移したのも2027年4月8日。美帆さんも同じ日です」
「しかし、私はこの世界へ三十年前に到着した。瀬川さんは約二年前。そして高瀬さんは昨日だ」
窓の外では、鳥に似た生き物が白い塔の周囲を飛んでいる。
同じ一日から来た三人が、異世界では三十年も離れて到着している。
「地球では、時間が進んでいるんでしょうか」
「分からない」
悠一郎は曖昧にせず答えた。
「私たちが消えた後も2027年が続いているのか。三人とも同じ瞬間から別々に抜き取られたのか。それすら確認できていない」
王宮には、過去の転移者の記録が保管されていた。
日本だけではない。地球のさまざまな国から来た人がいる。到着地点も神殿、森、海岸、街中と一定しない。
「共通しているのは東京にいたことですね」
紬が言った。
「それと、猫です」
悠一郎が一冊の手帳を開いた。
転移する直前、東京駅の階段で一匹の猫を見たという。首輪のないキジ白で、人混みの中から悠一郎を見上げていた。
「瀬川さんは猫たちと店ごと移動した。高瀬さんは猫カフェの扉を通った。そして私は、猫を追って階段を上った」
床へ伏せていたデンの耳が動く。
「猫が私たちを連れてきたんですか?」
「まだ、そう決めつけない方がいい」
悠一郎は手帳を閉じた。
「似ている点が三つあっても、原因とは限らない。だから記録する。どこから来たか、何時だったか、直前に何を見たか。小さな違いも捨てない」
美帆は王宮から渡された記録用紙へ、昨日のことを書いた。
渋谷。雨。細い道。木の看板。猫の絵。扉を開けたときの白い光。
「帰還方法の調査は続ける。ただ、今すぐ帰れるとは約束できない」
「はい」
「瀬川さんの家で暮らすことも、正式に認めよう。ただし、嫌になったときは王宮へ相談できる。働くことと、住む場所を与えてもらうことは別だ。無理に働いて居場所を買う必要はない」
昨日、紬にも似たことを言われた。
ここにいるために、今すぐ役に立たなくてもいい。
美帆は返事をしてから、窓辺の猫籠を見た。
「王様も猫を飼っているんですか?」
「いや。勝手に来る」
悠一郎が窓を開けると、茶白の猫が当然のように入ってきた。机へ上がり、重要そうな書類の真ん中に座る。
「名前は?」
「つけていない。王宮の庭師は『陛下』と呼んでいる」
「王様が二人になりませんか」
美帆が言うと、悠一郎は初めて声を立てて笑った。
帰りの馬車で、デンが前を向いたまま尋ねた。
「怖くなったカ?」
「少し。でも、昨日よりは落ち着きました」
「謎は減ってナイゾ」
「分からないことが分かったから、少しだけましです」
ねこオアシスオハナへ戻ると、開店前の扉の前でクッキーが待っていた。
美帆が椅子へ座ると、今日もためらわず膝へ乗ってくる。
三十年の時間差も、猫との関わりも、まだ何ひとつ解けていない。
それでも、膝の上の温かさだけは確かだった。




