第38話 金精花の匂う朝
洗濯物を庭に干しに出た朝、美帆は甘い香りに足を止めた。
どこかで嗅いだことのある匂いだった。記憶をたどると、実家の近くにあった生垣の匂いによく似ている。
「ミュルネ、この匂い、何の花ですか」
物干し竿を手にしたミュルネが、庭の隅を指した。橙色の小さな花を無数につけた木が、朝の光の中で揺れていた。
「金精花です。この時期になると、毎年香ります」
「金精花……。地球にも、よく似た香りの花があったんです。金木犀っていうんですけど」
「似た花は、他の世界にもあるのかもしれません。この木は、昔から精霊が寄ってくる花だと言われています」
「精霊が、寄ってくるんですか」
「香りに引き寄せられるのだと、先代から聞いております。わたくしも、この匂いを嗅ぐと、なんとなく落ち着くのです」
ミュルネはそう言うと、花の方へ小さく顔を向けた。精霊にも、好きな匂いがあるらしい。
美帆は洗濯物を干す手を止め、しばらくその香りを吸い込んだ。品種も名前も違うのに、鼻の奥に広がる甘さは、記憶の中の金木犀とほとんど同じだった。
「同じ匂いなのに、名前が違うんですね」
「同じに見えるものでも、こちらではこちらの呼び方があります。似ているからといって、同じものとは限りません」
「じゃあ、この花にも、金木犀とは違う言い伝えがあるんですか」
「はい。精霊が寄ってくるという話のほかに、この香りを覚えている者同士は、いつかまた会えるという言い伝えもございます」
「素敵な言い伝えですね」
「わたくしも、そう思います」
その言葉に、美帆は小さく頷いた。似ているけれど、同じではない。この世界に来てから、何度も感じてきたことだった。
店に着くと、紬も庭の匂いに気づいていた。
「今年も、金精花の季節ですね」
「紬さんも、この匂いは特別なんですか」
「はい。毎年この匂いがすると、一年の折り返しを過ぎたことを実感します」
紬はそう言って、窓の外へ目をやった。棚の上では、ハンが庭の方角に鼻を向け、匂いを確かめるように目を細めている。
「猫にも、この匂いは分かるんでしょうか」
「好き嫌いはあるようです。強い香りが苦手な子は、少し離れた場所へ移ります」
「ジョーとベスは、どうなんですか」
「あの二匹は、匂いにはあまり動じません。むしろ、庭の方角をじっと見ていることが多いです」
窓際のハンモックを見ると、確かに二匹とも、庭のある方角へ顔を向けていた。花そのものより、風に運ばれてくる匂いの発信源を確かめているようだった。
実際、いつも窓際にいるはずのツカサが、その日は店の奥まで下がっていた。代わりに、匂いを気にしない様子のクッキーが、窓辺で日向ぼっこを続けている。
「庭の枝を少し切って、店に飾ったら、お客さんも喜びそうですね」
「花を飾るのは、やめておきましょう」
紬は、少しだけ首を振った。
「地球の金木犀は、猫が口にしても毒にはならないとされている木です。ただ、金精花は似ているだけで、同じ木ではありません。治療師さんにも聞いてみましたが、猫にどう働くかまでは、はっきり分かっていないそうです」
「似ているからといって、同じものとは限らない……。ミュルネも、同じことを言っていました」
「それに、金精花はとても散りやすい花なんです。枝を切って飾ると、一日もしないうちに、小さな花が床いっぱいにこぼれてしまいます」
「あの小さい花が、全部ですか」
「はい。猫たちには、ちょうどいいおもちゃに見えるでしょうね。転がして遊んで、そのまま口に入れてしまう子もいると思います。毒のない植物でも、たくさん食べればお腹を壊すことがありますし、あれだけ小さいと、全部拾いきるのも大変です」
美帆は、今朝の庭を思い出した。言われてみれば、金精花の根元には、橙色の小さな花が敷き詰めたように落ちていた。咲いてから、まだ数日しか経っていないはずなのに。
「風で吹き込んできた花も、見つけしだい拾うようにしています」
紬はそこで、少し声を落とした。
「本当に気をつけたいのは、花より香油のほうです」
「香油、ですか」
「この時期、市場には金精花の香りを移した香油や匂い袋が並びます。濃い香りの油には、猫の体では分解しにくい成分が含まれていることがあって、舐めたり、長く吸い込んだりすると、体に負担がかかるんです。地球でも、猫のいる部屋で精油を使うのは避けるように言われていました」
美帆は、市場で見かけた、小瓶の並ぶ屋台を思い出した。いい香りだと思って、手に取りかけたこともある。
「……買わなくてよかったです」
「香りは、庭で楽しむくらいがちょうどいいんです」
夕方、洗濯物を取り込みに庭へ出ると、金精花の香りは朝よりも柔らかくなっていた。
「夕方は、匂いが弱くなるんですか」
「気温が下がると、香りの立ち方も変わります。朝と夕方では、同じ花でも少し違って感じられます」
美帆は取り込んだ洗濯物を抱えながら、もう一度だけ庭を振り返った。橙色の花はそのままそこにあったが、香りだけが、一日の中で静かに形を変えていた。
同じ木、同じ花なのに、朝と夕方で違う顔を見せる。地球の金木犀にも、こんな一面があっただろうか。美帆は思い出そうとしたが、うまく思い出せなかった。似ているからこそ気づく違いもあるのだと、今更のように感じた。
「ミュルネは、来年もこの香りを楽しみにしているんですか」
「はい。毎年、同じ木から同じ香りがすることが、わたくしには何よりの安心なのです」
美帆はその言葉を聞きながら、自分もいつの間にか、この世界の季節の巡りを心待ちにするようになっていることに気づいた。金木犀とは違う名前の花だが、その香りが運んでくる懐かしさだけは、確かに本物だった。




