第37話 六十グラム
まだ空が白みはじめたばかりの頃、家の戸を叩く音で美帆は目を覚ました。
戸口に立っていたのは、市場の倉庫番をしているオルドだった。走ってきたのか、肩で息をしている。
すぐに紬も出てきた。
「朝早くにすまない。倉庫の前に、子猫がいるんだ」
オルドの話では、倉庫の通用口の前で、若い母猫が子猫を産んでいたらしい。朝一番に扉を開けたところで母猫は驚いて逃げてしまい、生まれたばかりの子猫が二匹、扉の前に取り残されているという。
「親が戻ってくるかと思って離れて見てたんだが、戻ってこない。触っていいものかも分からなくてな」
「触らずにいてくださって、助かりました」
紬はそう言って、すぐに上着を羽織った。
倉庫までは、歩いてもすぐの距離だった。
通用口の前、石畳の上に、手のひらに収まるほどの小さな塊が二つあった。少し大きいほうは三毛、小さいほうは真っ黒な毛をしている。目も開いていない。それでも二匹は、細い声を上げながら、必死に前足で地面を掻いて進もうとしていた。
「お母さんを、探してるんですね」
美帆の声がかすれた。少し離れた木箱の陰に、痩せたキジトラの猫がうずくまってこちらを見ている。体はまだ小さく、一歳にも満たないように見えた。
「あの子が母猫ですね。……まだ、子どもみたいな体です」
紬がそっと一歩踏み出した瞬間、母猫は身を翻し、積まれた荷の間へ消えてしまった。
「この扉は、もうすぐ荷運びで使う。ここに置いておくわけにはいかないんだ」
オルドが困ったように言った。
「できれば、母猫と一緒に保護したいんです」
紬は子猫から目を離さずに答えた。
「生まれてすぐの子猫にとって、一番いいのは母猫のお乳とお世話です。せめて一か月は、母猫に育ててもらいたい」
「じゃあ、せめて扉の前からどかしてあげるだけでも」
思わず手を伸ばしかけた美帆を、紬が静かに止めた。
「今、触ると、子猫に人の匂いが付いてしまいます。匂いが変わると、母猫が自分の子だと分からなくなって、戻ってきても世話をしなくなることがあるんです。最悪の場合は……」
美帆は伸ばしかけた手を、ゆっくりと引っ込めた。すぐそこで子猫が鳴いているのに、何もできない。それが、こんなにもどかしいとは思わなかった。
「母猫が戻ってこられるなら、それが一番です。まずは、母猫を探しましょう」
同行してきたセンが、母猫の消えた方へ鼻を向けた。匂いを追って荷の間を抜け、倉庫の裏手へ回る。美帆とオルドも手分けして探したが、しばらくして戻ってきたセンは静かに首を振った。
「水路の手前で匂いが途切れています。この先は、追えません」
その間にも、子猫の声は目に見えて弱くなっていた。地面を掻く前足の動きが鈍り、体は冷えはじめている。
紬は決断した。
「子猫だけ、先に保護します。人の匂いが付いても、このまま冷えてしまうよりはいい。母猫は、あらためて迎えに来ます」
紬は上着を脱いで子猫を包み、美帆は倉庫の周りに母猫のための食事と水を置いた。オルドには、母猫を見かけたら知らせてほしいと頼んだ。
家に戻るとすぐ、紬は台所で湯を用意した。
「まず体温を上げます。冷えたままでは、ミルクを飲むこともできません」
ぬるめの湯を張った桶に、顔が浸からないよう手で支えながら、子猫の首から下をそっと沈める。しばらくすると、硬く縮こまっていた体が少しずつ緩んできた。湯から上げたら、柔らかい布ですぐに水気を拭き取る。
台所の秤に乗せると、二匹とも六十グラムほどしかなかった。
「生まれたばかりの子猫は、普通なら八十グラムから百グラムくらいあります」
「全然、足りてないんですね」
「予定より早く生まれたのかもしれません。母猫もまだ若いですから、お乳もあまり飲めていなかった可能性があります。途中で人が来てしまったことで放れたかもしれません」
子猫を温め続ける場所が必要だった。店にある保温用の箱は、どれも大きな猫向けのものだ。紬と美帆は、家にあるものをかき集めた。
底の深い木箱に厚手の布を何枚も敷き、湯を詰めた瓶を布で巻いて端に置く。子猫が熱いときに離れられるよう、半分は温めない側を残した。箱の中に小さな温度計を吊るし、上から布をかけて熱が逃げないようにする。
「箱の中を、ずっと三十度くらいに保ちたいんです。湯が冷めたら、すぐに入れ替えないといけません」
「承知いたしました。わたくしが見ております」
ミュルネは箱の中の温度計をのぞき込み、替えの湯を沸かすための鍋を火にかけた。
ミルクは、子猫用の粉ミルクを溶き、人肌に冷ましてから与えた。けれど、吸う力がほとんどない。紬は細い匙の先にミルクをのせ、子猫の口の端から一滴ずつ含ませた。
「急いで飲ませると、肺に入ってしまいます。少しずつ、飲み込むのを確かめながら」
一滴飲み込むたびに、美帆は息を止めて見守った。食事のあとは、湿らせた布でお腹とお尻をそっとさすり、排泄を促す。本来なら母猫が舐めてしてあげることだった。
その日から、二、三時間おきのミルクが始まった。夜中も、明け方も、美帆と紬が交代で起きる。記録帳には、時刻と飲んだ量、排泄の有無、体重が並んでいった。
それなのに、体重はなかなか増えなかった。五グラム増えては、次の日には戻っている。
「こんなに頑張って飲んでるのに……」
「飲めている間は、望みがあります。今は、続けることです」
三日目の朝、オルドから知らせが届いた。倉庫の裏に仕掛けておいた捕獲器に、あのキジトラの母猫が入っていたという。
すぐに治療師に来てもらい、エミリーの補助で母猫を診てもらった。痩せてはいたが、大きな怪我はない。ノミの駆除と、体に合わせた処置を済ませ、落ち着くのを待ってから、子猫のいる箱のそばへそっと移した。
けれど、母猫は子猫に近づこうとしなかった。箱の隅で身を固くし、子猫の声がするたびに耳を伏せる。低く唸って、また隅へ下がった。
「……今は、自分のことで精いっぱいなんですね」
紬は静かにそう言って、母猫を別の部屋へ移した。
「無理に合わせれば、母猫にも子猫にも危険があります。子猫は、このまま私たちで育てましょう」
その夜から、母猫は鳴き続けた。子猫を呼んでいるのか、知らない場所が怖いのか、それとも自分でも分からないのか。細く、途切れがちな声が、家の中に響き続けた。
美帆は子猫にミルクを与えながら、その声を聞いていた。
「お母さんも、まだ子どもなんですよね」
「はい。あの子も、守られるべき年齢です。だから、あの子のことも、ちゃんと見ていきます」
母猫の声は、一週間続いた。
一週間が経つ頃、二匹の体重はようやく八十グラムほどになった。本来なら生まれた日の重さだ。
心配になった紬は、あらためて治療師に子猫を診てもらった。治療師は二匹を順に手のひらに乗せ、長い時間をかけて確かめたあと、静かに首を振った。
「この大きさでは、できることは多くありません。温めて、飲ませて、見守る。今していることが、そのまま治療です」
「……はい」
美帆は唇を噛んだ。できることが何もない、と言われた気がした。けれど紬は、記録帳を閉じて小さく頷いた。
「今していることが正しいと、確かめられました。それで十分です」
二週目に入ると、体重の増え方が少しずつ変わってきた。三毛の子は百三十グラムまで増えた。黒い子は百グラム。数字が並ぶたびに、差が開いていく。
黒い子は、ミルクを飲む量も少なかった。途中で口を離し、眠ってしまう。美帆は匙を持ったまま、何度もその背中をさすった。
「もう少しだけ、飲もう。ね」
ミュルネは箱の中の温度を一度も下げなかった。湯が冷める前に瓶を入れ替え、夜中に美帆が起きると、ミュルネが箱の温度計をのぞき込んでいることもあった。
そうして、二週間が経った。
秤に乗せると、三毛の子は百五十グラム。黒い子は百二十グラム。
「……増えてます」
「はい。少しずつですが、ちゃんと」
美帆は記録帳の数字を、指でなぞった。六十、六十。八十、八十。百三十、百。百十、百二十。どの数字の間にも、眠れなかった夜と、一滴ずつのミルクが挟まっている。
「まだ安心はできません。でも、今日は少しだけ、ほっとしていい日です」
紬の言葉に、美帆は深く息を吐いた。いつの間にか、肩にずっと力が入っていたことに気づいた。
箱の中で、三毛と黒の二匹が身を寄せ合って眠っている。まだ目も開ききらない小さな体が、呼吸に合わせてかすかに上下していた。
隣の部屋から、母猫の声はもう聞こえない。今朝、美帆がのぞいたときには、器の食事をきれいに平らげ、窓辺で丸くなっていた。
美帆は記録帳の新しいページに、今日の日付と、二つの数字を書き込んだ。そして、その下に一行だけ付け加えた。
「日々成長」




