第36話 虫の声が変わる日
閉店後の片付けを終え、渡り廊下を歩いていると、美帆はふと足を止めた。
いつも聞こえていた虫の声が、なんとなく違う気がした。
「紬さん、今日、虫の鳴き方が変わっていませんか」
少し先を歩いていた紬も、耳を澄ますように立ち止まった。
「本当ですね。低い声のものが増えています」
「虫の種類が変わったんですか」
「はい。夏に鳴いていた種類は、そろそろ鳴き終わる頃です。今聞こえているのは、秋の後半に鳴く種類だと思います」
美帆は廊下の手すりに寄りかかり、しばらく耳を傾けた。高く鋭い声はほとんど聞こえず、代わりに、低く途切れがちな声が重なり合っている。
「同じ虫の声でも、こんなに違うんですね」
「季節ごとに、鳴く虫が入れ替わっていきます。声を覚えておくと、今どの季節にいるのか、目を閉じていても分かるようになります」
翌日、店で紬にその話をすると、紬は棚のハンへ目をやった。
「ハンは、虫の声にも反応するんですか」
「耳の動きを見ていると、時々、何かに気づいているようです。声には出しませんが」
美帆がハンの方を見ると、ちょうど窓の外から低い鳴き声が聞こえてきた。片耳だけが、わずかにそちらへ向く。
「本当だ。今、動きました」
「猫は、人よりずっと多くの音を聞き分けています。私たちが気づく頃には、とっくに知っていたのかもしれません」
仕事の合間、美帆はふと外の音に耳を澄ます癖がついた。市場の喧騒の合間にも、よく聞けば同じ低い声が混じっている。季節は、店の中よりも先に、こうした小さな音の中で動いているのかもしれなかった。
家に着くと、庭先でもミュルネが同じように耳を澄ませていた。
「今夜は、少し肌寒くなりそうですね」
「虫の声だけで、そこまで分かるんですか」
「長くこの家におりますと、自然と」
ミュルネは静かにそう言うと、窓を少しだけ開けたままにした。夜風とともに、虫の声が部屋の中まで届いてくる。
夕食の後、美帆は縁側に座り、しばらくその声を聞いていた。ピピが隣に来て丸くなり、ヘキは少し離れた場所から庭を見つめている。
「猫にも、この声は聞こえているんでしょうか」
誰に聞くともなくつぶやくと、ヘキの耳がわずかに動いた。答えるつもりはないのだろうが、何かに反応したのは確かだった。
美帆は地球にいた頃の秋を思い出した。あの世界にも、季節ごとに違う虫の声があった。種類こそ違うが、夜が更けるにつれて声が変わっていく感覚は、どこか似ている。
「向こうの世界にも、似たようなことがあるんですか」
ミュルネに聞かれ、美帆は少し考えてから頷いた。
「はい。私が住んでいた場所でも、秋が深まるにつれて、鳴く虫の種類が変わっていきました。今日みたいに、ふと気づく夜がよくあったんです」
「同じことに気づく夜が、遠い場所にもあったんですね」
ミュルネの言葉に、美帆は小さく笑った。世界は違っても、季節の変わり目に気づく瞬間だけは、どこか共通しているのかもしれない。
翌朝、紬に前夜のことを話すと、静かな返事があった。
「気づいたなら、記録しておくといいです」
「虫の声も、記録するんですか」
「はい。日付と、聞こえた声の変化を書いておくと、来年、同じ時期に見比べられます」
美帆は記録帳の隅に、小さく書き添えた。「虫の声、低いものに変わる」。たった一行だが、これもまた、この世界の季節を知るための、大事な手がかりになるのだろう。
その日の夜も、廊下を歩くと同じ声が聞こえた。昨日より、少しだけ声の数が増えているような気がした。季節は、目に見える場所だけでなく、耳に届く音の中でも、確かに動き続けていた。
美帆は布団に入る前、もう一度だけ窓を開け、その声にしばらく耳を澄ませてから眠りについた。




