第35話 日向
朝の見回りで、美帆はいつもの棚に日が当たっていないことに気づいた。
「あれ、この棚、いつもは日が当たっているはずですよね」
「ええ。太陽の角度が、少しずつ変わってきているんです」
紬は窓の外を指した。夏には真上近くにあった光の筋が、今はもう少し斜めから差し込んでいる。
「こんなにも違うんですね」
「その日向に合わせて猫たちも居場所を移動するのです」
言われてみると、いつも棚の上で丸くなっていたクッキーが、今日は窓際の低い台に座っていた。代わりに、普段はあまり日向を好まないツカサが、棚の端で目を細めている。
「場所の取り合いになったりしないんですか」
「取り合いというより、譲り合いに近いです。日の動きに合わせて、みんな少しずつゆずりあい場所を変えていきます」
美帆は棚から棚へと目を移した。先客がいる場所には無理に割り込まず、少し離れた場所で新しい日向を見つける猫もいれば、日向がなくなるまで粘る猫もいる。それぞれのやり方があるらしかった。
「無理に場所を奪う子は、いないんですか」
「たまにはいます。そのときは、譲った側が別の日向を探すだけです。争いというほどのことにはなりません」
紬はそう言ってから、少し声を落とした。
「ただ、あの二匹だけは別です」
視線の先には、窓際のカウンターがあった。通りを見下ろせる高さがあり、日当たりも良いため、猫たちの間でも特に人気の場所だった。たいていは早い者勝ちで決まり、後から来た猫は少し離れた場所で新しい日向を探す。それでも、ときには二匹が同時に端と端から近づくことがあった。
今がまさにそうだった。片方の端からルー、もう片方からソラが、同じカウンターへ向かっていた。
先に上がったのはルーだった。だがソラも歩みを止めず、そのままルーの正面に腰を下ろした。
低い唸り声が上がった。ルーはその場に寝転んだまま、喉の奥から声を絞り出すように威嚇した。攻めているようでいて、耳は伏せ、体はできるだけ小さく丸めていた。負けを認めながら、それでも場所だけは譲らないという構えだった。
「ルーは、いつもこうなんですか」
「威張っているように見えて、実際はかなり弱腰なんです。でも、退くのも嫌みたいで」
もともと体の大きいソラは、白と灰色の混じった体を斜めに構え、毛を逆立てて実際より一回り大きく見せていた。低く構えたルーを見下ろすように、じりじりと距離を詰めていった。
「あの二匹は、相性が良くないんですね」
「はい。他の子とはほとんど揉めないんですが、あの組み合わせだけは、たまにこうなります」
紬はすぐには動かなかった。声の強さと体の向きを見ながら、このまま様子を見るべきか、間に入るべきかを静かに見極めているようだった。
「止めなくていいんですか」
「今はまだ、どちらも本気ではありません。本気になる前の、様子見の声です」
しばらくして、ソラの唸り声がわずかに高くなった。紬はそこで初めて、二匹の間にそっと体を割り込ませた。手は出さず、ただ視界を遮るように立っただけだった。それだけで、ルーは体を起こし、ソラも毛を寝かせて後ろへ下がった。
「無理に引き離さないんですね」
「引き離すと、余計に意地になることがあります。間に入って、お互いが退く理由を作ってあげるだけで十分なんです」
ルーは離れた棚へ移り、何事もなかったように毛づくろいを始めた。ソラは残ったカウンターの上で、ゆっくりと体を伸ばして日向に収まった。
美帆は記録帳に、今日はカウンターでルーとソラが場所を取り合ったことを書き添えた。
「こういうことも、記録するんですか」
「はい。相性は、日向の位置と同じくらい、毎年少しずつ変わっていきますから」
昼が近づくにつれ、光の筋はさらに移動した。朝は誰もいなかった床の一角に、いつの間にかビィが陣取っている。
「ビィ、そこにいるの珍しいですね」
「あの子は、日向にいる時間が短い代わりに、一番いい場所を選ぶのが上手なんです」
美帆は記録帳を開き、今日の日向の位置と、そこにいた猫の名前を書き留めた。
「こんな細かいことまで、記録するんですか」
「日向の位置は、季節の記録にもなります。去年の同じ時期のページと見比べると、日の傾きがどれくらい進んだかが分かります」
紬はそう言って、古い記録帳のページをめくった。一年前の同じ時期にも、同じような書き込みがあった。
「去年も、同じ場所が日向だったんですね」
「はい。ほとんど変わりません。変わるのは、そこにいる猫の方です」
午後になると、日向は店の奥まで届くようになっていた。ハンはいつもの棚から動かず、光が自分のところまで来るのをただ待っているようだった。
「ハンは、自分から動かないんですね」
「待つことも、日向の取り方の一つです。動く子もいれば、待つ子もいます」
窓際のハンモックにも、光の筋が届く時間があった。ジョーとベスは、その時間になると決まって場所を少しだけずらし、光の当たる側に体を寄せる。
「あの二匹も、ちゃんと日向を選んでるんですね」
「はい。警戒心の強さと、日向を選ぶ賢さは、別のもののようです」
夕方が近づき、光の筋がゆっくりと壁の方へ移っていく。最後まで日向にいたビィが、名残惜しそうに体を伸ばしてから、いつもの物陰へ戻っていった。
美帆は今日一日の日向の動きを、もう一度記録帳で確かめた。同じ光が、朝から夕方まで、店の中をゆっくりと巡っていく。その動きに合わせて、猫たちの居場所も少しずつ移り変わっていた。
「明日は、また少し角度が変わるんでしょうか」
「はい。毎日、ほんの少しずつです。積み重なると、いつの間にか季節が変わっています」
窓の外はもう夕暮れの色に染まっていた。美帆は記録帳を閉じながら、今日見た光の動きを、来年の同じ時期にも思い出せるだろうかと考えた。
「来年の私は、今日のことを覚えているでしょうか」
「覚えていなくても、記録帳が覚えています。それで十分だと思います」
紬の言葉に、美帆は小さく頷いた。自分の記憶が薄れても、棚に並ぶ古い記録帳のページが、今日という日をちゃんと留めておいてくれる。そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
美帆は最後にもう一度、日が沈んでいく窓の方を振り返った。




