第33話 本当の日常
朝は、ピピが顔を覗き込んでくるところから始まる。
瞼を開けると、三毛の顔がすぐそばにあった。目が合うと、ピピはそのまま美帆の胸の上に体重をかけてくる。
「起きるから、そんなに乗らないで……」
声に応えるように、今度はきなこもちが足元から這い上がってきた。ヘキは椅子の上から様子を見ているだけで、動く気配はない。
身支度をしていると、廊下からキットカットが顔だけを出し、コイルが短い尾を揺らしながら階段を駆け下りていった。
「おはようございます、美帆様。朝食のご用意ができております」
一階に下りると、ミュルネがすでに食卓を整えていた。ゆきのじは窓辺で、外の光を浴びながら毛づくろいをしている。
簡単な朝食を済ませ、渡り廊下を通って店へ向かう。短い距離だが、この数歩の間に、家の空気から店の空気へと切り替わる感覚があった。
「おはようございます」
「おはようございます、美帆さん」
店に着くと、紬はすでに水を替え終えていた。棚の上ではハンが、いつもの場所で朝の光を浴びている。
「今日も変わりありませんね」
「はい。変わりないのが、一番です」
朝の見回りを終え、簡単な掃除をしていると、セティが接客の準備を始めた。開店の少し前、美帆は紬に頼まれて市場まで使いを頼まれた。
「ついでに、少し歩いてきてもいいですか」
「構いません。今日は天気もいいですから」
市場は、いつもの喧騒に包まれていた。八百屋の店先には見慣れた瓜が並び、通りの角では見知らぬ屋台が新しい商品を並べている。特に用事のない道を、少しだけ遠回りして歩いた。
石畳の隙間から伸びる小さな草、遠くに見える白い城、荷車を引く角馬の足音。この世界に来てからの数か月で、驚くことは少しずつ減っていた。それでも、見慣れたはずの景色の中に、まだ知らない角がいくつも残っている。
用事を終え、店に戻ると、昼過ぎの客足がちょうど落ち着き始めていた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
午後は、常連客の相手をしながら、棚の猫たちの様子を確かめて回った。テプが膝に乗り、クッキーが足元をうろついた。デンは相変わらず、カウンターの奥で寝転んだまま動かない。
窓際のハンモックでは、ジョーとベスが並んで丸くなっていた。今日も機嫌を確かめる必要はあったが、それもまた、いつもの一日の一部だった。
「今日は、店の外の空気はどうでしたか」
「秋らしい匂いがしました。市場の果物も、少しずつ変わってきています」
「季節は、店の中よりも先に、外で動いているのかもしれません」
夕方、店じまいをして、セティやガルネオと挨拶を交わす。紬と一緒に渡り廊下を戻ると、家の中はもう夕食の匂いに満ちていた。
「お帰りなさいませ」
ミュルネの声に迎えられ、居間に入ると、ヘキが棚から下りてきて足元をすり抜けていく。コイルは早くも夕食の気配を察して、食卓の脚にまとわりついていた。
夕食を済ませ、家の猫たちの餌皿を洗い、トイレを整える。店で覚えた確認の手順が、家でも同じように役立つことに、美帆は少しだけおかしさを覚えた。
「店も家も、やることはあまり変わりませんね」
「大事なことは、たいてい同じです。場所が違うだけで」
布団に入ると、ピピが枕元、きなこもちが足元、ヘキは少し離れた椅子の下に落ち着いた。窓の外では、遠くの城の灯りが小さく瞬いている。
家の猫と過ごし、店の猫の世話をし、また家へ戻る。特別なことは何もない一日だったが、この繰り返しの中にこそ、美帆が少しずつ築いてきた暮らしがあるのだと思えた。
目を閉じる前、美帆はもう一度、今日一日の流れを思い返した。市場の匂い、店の水替え、家の夕食の湯気。どれもばらばらの場所での出来事なのに、振り返ればひとつながりの、今日という日になっていた。




