第30話 開店前の順番
開店の一時間前に店へ着くと、紬はもう鍵を開けて中にいた。
「早いんですね、紬さん」
「いつもこの時間です。美帆さんも早いですね」
言われて、美帆は少し照れた。今日は早番の日ではなかったが、なんとなく早く目が覚めて、そのまま来てしまった。
紬は挨拶もそこそこに、いつもの動きを始めていた。まず、店の隅々の窓を開けて回る。次に、水入れの水をすべて入れ替える。順番は毎日同じ。
「窓を開けるのが先なんですね。掃除よりも」
「夜の間にこもった空気を出してからでないと、掃除をしても意味が薄いので」
窓を開けるたびに、外の空気と一緒に、朝の光の匂いのようなものが店の中に流れ込んでくる。乾いた土と、どこか遠くの花の匂いが混ざったような、この時間にしか感じない匂いだった。美帆はまだそれをうまく言葉にできずにいた。
水を替え終えると、紬は棚の上から順に、猫たちの様子を一匹ずつ確かめていった。声をかけるでもなく、ただ顔を見て、次へ進む。
「毎朝、全部の子を見て回るんですか」
「はい。夜のうちに変わったことがないか、まず目で確認します」
美帆も真似て、隣の棚の猫たちを覗き込んだ。よく寝ているジョー、片目だけ開けてこちらを見るツカサ、すでに起きて毛づくろいをしているビィ。昨日と同じようで、少しずつ違う。
「同じことの繰り返しに見えて、毎日違うんですね」
「同じに見える日ほど、実は違います。慣れてくると、その違いの方が目につくようになります」
棚の隅では、ハンがまだ丸まったまま動かずにいた。紬はその前で少し足を止め、いつもより長く様子を見てから、次の棚へ進んだ。
「今日は、何か気になることが」
「いえ、特には。ただ、少し寝起きが遅いだけかもしれません」
一通り見終わると、紬はようやくエプロンを身につけ、掃除用具を取り出した。
「掃除は、猫を見たあとなんですね」
「見る前に掃除をすると、埃を立ててしまいます。埃を吸って調子を崩す子もいるので」
美帆はモップを受け取り、紬の後ろについて床を拭き始めた。二人分の足音と、モップの音だけが、開店前の店に響いた。棚を拭くたび、猫たちが迷惑そうに片目だけ開けてこちらを見る。
「紬さんは、いつからこの順番なんですか」
「最初からです。教わった通りにしているだけで、特別な理由があるわけではありません」
「教わった、というのは」
「もっと前にここをやっていた人からです。今はもういませんが」
紬はそれ以上を語らず、掃除の手を止めなかった。美帆も、それ以上は聞かなかった。ただ、紬の動きの端々に、誰か別の人の癖が重なっているような気がした。
棚を拭き終える頃には、外の光がすっかり白くなっていた。開店の看板を出す時間が近づいている。
「今日も同じ順番で終わりましたね」
「ええ。同じ順番だからこそ、違うところにすぐ気づけます」
紬は看板を持って扉へ向かった。美帆はその後ろ姿を見ながら、自分が今日ここに早く来たことの理由を、なんとなく分かったような気がした。
看板を出し終えた紬が、扉を開け放ったまま振り返った。
「今日も、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
特別に教わったわけではなかったが、次の朝も、美帆は同じ時間に店へ着いた。順番を覚えることは、いつの間にか、この店の朝を覚えることと同じになっていた。
窓、水、猫たちの顔、掃除。声に出して確かめなくても、体が先に動くようになった順番がある。それがいつからだったのか、美帆自身にもはっきりとは分からなかった。
ただ、今朝もいつも通りに鍵を開けて待っていた紬の姿を見て、少しだけ安心している自分に気づいた。
「紬さんは、休みの日も同じ時間に起きるんですか」
「そうですね。癖になっているので、あえて崩す理由もないです」
「私も、そのうちそうなるんでしょうか」
「なるかもしれませんし、ならないかもしれません。それも、無理に合わせるものではないです」
紬の答えはいつも通り、押しつけがましくなかった。美帆はそれが心地よくて、今日もまた早く目が覚めた理由の一つなのかもしれないと思った。




