第29話 水曜日のドーウィンさん
水曜の昼過ぎになると、通りの向こうから角馬の荷車が近づいてくる音がする。
車輪の音に気づくと、窓辺にいる猫たちが決まって顔を上げた。美帆もいつしか、その音を覚えるようになっていた。働き始めたばかりの頃は、他の荷車と聞き分けることすらできなかった。
「今日は水曜でしたね」
「ええ。ドーウィンさんの日です」
荷台を止めて店に入ってきたのは、白髪交じりの配達人だった。大きな鞄から、注文していた紙の束と、餌の袋を取り出す。
「紬さん、いつもの分だ。それと、これは個人宛だよ」
ドーウィンは折りたたまれた手紙を一通、紬に手渡した。差出人の名前は、美帆には見覚えのないものだった。
「取引先の方ですか」
「以前、うちから譲渡した猫の飼い主さんです。近況を知らせてくださることがあります」
紬は手紙をすぐには開かず、カウンターの端にそっと置いた。
「今読まないんですか」
「あとで、ゆっくり読みます。急いで読むものでもないので」
ドーウィンは荷物を下ろし終えると、椅子に座らず、カウンターの前に立ったまま世間話を始めた。
「今年は市場の魚が高くてね。北の漁場が、いつもより時化続きらしい」
「北の方は、雨が多い季節なんですか」
「多いというより、長引くんだよ。うちの若い衆が、荷車の車軸を直すのに一苦労しててね。泥にはまって、往生したらしい」
「大変だったんですね」
「まあ、荷物さえ濡れなきゃ、なんとかなるもんさ。紙は一番厄介だけどね」
ドーウィンはそう言って、紬が受け取った紙の束を軽く指さした。油紙でしっかり包まれている。
「この紙も、北から運ばれてくるんですか」
「いや、これは西の工房のだよ。北はもっぱら魚と塩さ」
話しながらも、ドーウィンの視線は自然と店の奥へ向かっていた。棚の上にいるハンと、目が合う。
「おう、ハンも元気そうだな」
「名前、ちゃんと覚えているんですね」
「そりゃそうだ。毎週顔を合わせてるんだから」
ハンは名を呼ばれても特に反応せず、窓の外を眺め続けていた。それでもドーウィンは満足そうに頷いた。
紬はその言葉に、小さく笑って頷いた。
ドーウィンは荷台の角馬に水をやると言って、一度外へ出た。角馬が水を飲む音と、荷車の車輪がわずかに軋む音が、開けた扉から聞こえてくる。
美帆はカウンターに置かれたままの手紙を見た。
「読まなくて、忘れてしまいませんか」
「忘れません。今日読むと決めているだけです」
ドーウィンは水をやり終えると、次の配達先へ向かうために荷台に戻った。
「じゃあ、また来週」
「お気をつけて」
荷車が角を曲がって見えなくなるまで、ハンは窓辺から動かなかった。角馬の足音が遠ざかるのを、耳だけでずっと追っているようだった。
紬は客が途切れた時間を見計らって、ようやく手紙を開いた。文面を読む横顔は静かで、美帆にも中身を尋ねるつもりはなかった。ただ、読み終えた紬が手紙を丁寧に封筒へ戻す様子を、少し離れた場所から見ていた。
「良い知らせでしたか」
「ええ。今のところ、元気に暮らしているそうです」
紬はそれだけ言うと、手紙を引き出しの奥にしまった。特別に喜びを表すでもなく、いつもの動作の一つに戻っていくようだった。
引き出しの中には、同じような封筒が何通も重なっているのを、美帆は前に一度だけ見たことがある。どれも、ここを巣立っていった猫たちの、その後の話が詰まっているのだろうと思った。
「美帆さんにも、いつかあの引き出しを開ける日が来るかもしれません」
「私宛の手紙が、届くようになるんですか」
「ここで見送った子たちが増えれば、自然とそうなります」
紬はそう言って、引き出しをそっと閉めた。次の水曜が来るまで、その中身が開かれることはない。
特別なことは何もない、いつもの水曜日だった。




