4匹家族の隔離部屋
福たちの夕食を載せた台車を押し、美帆は猫専用スペースの前で止まった。
小さな出入口には、猫が通ると淡く揺れる羽根形の護符が付いている。福、クー、ムー、よしお、ハルは、人がいない時間になるとここからカフェエリアへ出てくる。スタッフは横の扉から中へ入れるが、必要以上に追いかけることはしない。
美帆が食器を置いて外へ出ると、最初に福が現れた。その後ろから、ハルが周囲をうかがいながらついてくる。
「ジョーとベスも、保護された直後はこんな部屋にいたんですか?」
美帆が尋ねると、紬は昔の隔離記録を開いた。
保護されたメグたちが最初に暮らしたのは、カフェエリアではなかった。
「新しい猫は、すぐみんなと会わせないんですか?」
昔の記録を読む美帆へ、紬が答えた。
「健康状態が分からないまま会わせれば、感染症や寄生虫を広げる可能性があります」
メグ、ジョー、ベス、エイミーは、既存猫と離れた隔離部屋へ入った。食器、水入れ、トイレ、敷物、掃除道具も専用にする。世話をする順番は健康な猫から隔離中の猫へ。部屋を出た後は手と履物を清潔にする。
四匹には一匹ずつ記録を作った。
体重、性別、毛柄。食事量と排泄。感染症検査、血液の状態、検便、ノミやダニの有無。家族だからと、一枚の記録へまとめることはしない。
最初は四匹が同じ食器へ集まり、誰が食べたのか分からなかった。そこで食器を少しずつ離し、体格や顔を確かめながら、離れた場所から見守った。
便も「家族の誰かがした」で終わらせず、可能な範囲で使った場所と時刻を記録する。完全に区別できない日は、分からなかったこともそのまま残した。
記録を埋めるために猫を追い回しては、観察そのものが体調を崩す原因になる。正確さと、猫を休ませることの両方が必要だった。
「検査も四匹分ですか?」
「同じ場所で暮らしていても、体の状態は同じとは限りません」
メグは人が入るたび、子猫の前へ出て威嚇した。
ジョーたちは母猫の後ろへ隠れる。人へ触れられた経験が少なく、捕獲と移動も重なっていた。誰かが手を伸ばせば、人は怖いというメグの反応を見ながら、さらに奥へ逃げた。
「母猫が人に慣れていないと、子猫も慣れないんですね」
「母猫だけが原因とは決められません。人と接する機会が少なかったこと、育った場所、捕獲された経験。いくつもの理由が重なります」
紬たちは、無理に抱いて慣らそうとはしなかった。
隔離室の壁には、外の足音を少しだけ和らげる術式を施した。だが、人への恐怖を消す魔法ではない。扉が開く回数を減らし、急な音を避け、猫が休める環境を補うだけだった。
「怖くなくなる術はないんですか?」
「あったとしても、猫の気持ちを人の都合で変えていいとは思わないわ」
毎日同じ時刻に声をかけ、食事を置く。掃除は同じ順番で行い、隠れ箱へ手を入れない。人が何をするのか、猫が予測できる生活を作った。
最初は、人が部屋を出るまで誰も食べなかった。
やがてメグが、紬のいる間に食器へ近づいた。次の日にはジョーが箱の入口から顔を出した。ベスはまだ奥にいたが、食器は毎回空になった。末っ子のエイミーは、姉兄より少し早く人の動きを見るようになった。
変化は、触れた回数ではなく記録で分かった。
『人が退室して十分後に食べた』
『今日は退室して五分後』
『メグは人がいる間に一口食べた』
五分早く食べたことも、箱から半身出たことも、その猫にとっては大きな一歩だった。
「隔離は、閉じ込めるための部屋ではないんですね」
「店の猫を守り、新しく来た猫も落ち着いて休ませるための部屋です」
必要な検査と処置が終わっても、四匹を急に広い場所へ出すことはしなかった。まず隣の部屋の音と匂いに慣らし、逃げ込める場所を残す。
扉を少し開けた初日、誰も外へ出なかった。二日目、エイミーが鼻先だけを出した。メグが奥から低く鳴くと、すぐに戻った。
それでも扉を閉めて失敗とは記録しなかった。
『入口まで来た。自分で戻った』
出なかったことではなく、自分で入口まで確かめに来たことを残した。
現在の猫専用スペースで、ジョーとベスは人のいない時間にカフェエリアへ出てくる。
人へ完全に慣れたわけではない。
それでも、自分で出る時間と戻る場所を選べるようになった。
安全とは、扉を閉めることだけではない。
怖いときに隠れられ、出たいときに自分で一歩を選べることでもあった。
その夜、美帆は店の明かりを一つずつ落とした。
人の声がなくなってしばらくすると、護符がかすかに揺れた。福が出てくる。その後ろにクーとムー、少し離れてよしおが続いた。
最後にハルが顔を出す。福の姿を確かめるように鼻先を向け、それから前脚を一歩だけ外へ置いた。
美帆は物陰から見ていたが、ハルの耳がこちらへ動いたのに気づき、先にその場を離れた。
翌朝、カフェエリアのクッションに淡い毛が一本残っていた。
誰も見ていない時間に、ハルが自分で選んでそこまで来た印だった。




