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第23話 食べない一食、食べない一日

 雨上がりの朝。


 軒先の雨受け石から、集めた水が一滴ずつ瓶へ落ちている。店内では朝食を待つ猫の声が重なっていたが、隔離室だけは静かだった。


 朝の食器が、一つだけ手つかずで残っていた。


 昨夜、相談を受けて一時的に保護した灰色の猫のものだ。まだ名前はなく、健康確認が終わるまで隔離室で過ごしている。


「食べていません」


 美帆はすぐ新しい食事へ替えようとした。


「その前に、確認しましょう」


 紬が記録板を開く。


 昨夜はどのくらい食べたか。水は減っているか。尿と便は出ているか。吐いた跡はないか。歩き方、呼吸、姿勢は普段と違わないか。


「昨日の夜は半分食べています。尿はあります。便はまだです」


 猫は箱の奥でうずくまっていた。知らない場所へ来た緊張で食べないこともある。だが、緊張だと決めつければ、病気の合図を見落とす。


 紬は離れた場所から様子を見た。呼吸は落ち着いている。立ち上がるときにふらつきはない。口元によだれや出血は見えない。


「口を開けて見ますか?」


「無理にはしません。痛みが疑われるなら治療師に診てもらいます」


 食器の形を変え、普段食べていたものに近い食事を少量だけ用意した。人が見ていると食べない可能性もあるため、置いて部屋を出る。


 冷えた食事は、湯を入れた保温皿へ重ねて少しだけ温めた。この世界の料理人が使う保温石なら早かったが、温度が上がり過ぎることがあるため使わない。


「魔法があっても、何でも任せられるわけじゃないんですね」


「匂いを立たせる助けにはなっても、食べない理由までは消せないもの」


 一時間後も、食事は残っていた。


「お腹が空けば食べますよね」


 美帆が言うと、紬は首を横に振った。


「猫は食べない状態が続くこと自体が体への負担になります。特に子猫、高齢猫、持病のある猫は、早めに相談が必要です」


 昼になっても食べない。水もほとんど減らず、箱から出た形跡も少ない。


 紬は治療師へ連絡した。


 セティが窓を開け、青い脚環を付けた伝言鳥を放つ。鳥は治療院まで短い言葉を届けられるが、昨夜からの食事量や排泄までは運べない。


 美帆は記録板を抱えて治療院へ向かった。雨に濡れた石畳を避けながら歩く。角馬の荷車が通るたび、車輪が浅い水たまりを踏んだ。


 急ぎながらも、美帆は頭の中で報告する順番を繰り返した。


 保護した時刻。昨夜は半分。今朝は食べず。水はほとんど減らない。尿は一回。便はまだ。嘔吐なし。


「ごはんを食べません」だけでは足りないことが、走っているうちにも分かってきた。


 診察では、体温、脱水、口の中、腹部などを確認した。美帆は保護後の食事量と排泄を記した板を渡す。


「病名を当てるより、変化を正確に伝える方が役に立つんですね」


「いつから、どのくらい、何が変わったか。それが診察の手掛かりになります」


 治療師の指示で必要な処置を受け、猫は静かな隔離室へ戻った。夕方、食器へ顔を近づけたが、すぐに離れる。


 美帆は食べさせようと口元へ押しつけなかった。食べない理由に痛みや吐き気がある場合、無理な給餌が負担になることもある。何を、どの方法で、どのくらい与えるかは治療師と相談する。


 夜、猫は用意された食事をほんの少しだけなめた。


「食べました」


「少し前進です。でも、これで大丈夫とは決めません。明日も観察を続けます」


 一食残したことだけで、重い病気とは限らない。


 けれど、一日食べないことを「猫にはよくある」と放置もしない。


 食べた量、食べない時間、ほかの変化。その一つずつを記録し、必要なときに専門家へつなぐ。


 美帆は記録板へ「食べた」と書きかけ、手を止めた。


『自分から二口。水は少量』


 完食ではない。元気になったとも、もう大丈夫だとも書けない。


 けれど、朝から何も口にしなかった猫が、自分から食器へ顔を近づけた二口だった。


 雨受け石から落ちる水音が、夜の店にも続いていた。美帆は次に確認する時刻を書き添え、隔離室の扉を静かに閉めた。


 まだ名前のない猫の今日が、健康手帳の正確な一行として残った。


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