第20話 初めての猫
「猫が好きなんです。でも、触ったことがなくて」
初めて来店した青年は、入口付近から動けずにいた。
猫カフェエリアでは、十匹以上の猫がそれぞれ好きな場所で過ごしている。青年が一歩進むと、近くにいた猫が棚の上へ移動した。
「逃げちゃいました」
「少しずつ猫の扱いになれていきましょう」
美帆は店内の約束を説明した。
猫を追いかけない。抱き上げない。寝ている猫を起こさない。食べ物を勝手に与えない。触る前には手を近づけ、猫が離れたら追わない。
「嫌がっているか、どうすれば分かりますか?」
美帆は、近くにいたチャオを示した。チャオの耳は前を向き、体に力は入っていない。
「今は大丈夫ですが、耳が横や後ろを向く、尻尾を強く振る、体を低くする、手を見て避ける。そういうときは、触るのをやめます」
「喉を鳴らしていたら、喜んでいますか?」
「安心して鳴らすこともあります。でも、緊張や痛みがあるときに鳴らす猫もいます。とはいえ、この状況では嬉しい表現ですね。一つの行動で決めず、体全体を見ます」
青年は、難しそうだなという顔をした。
「迷ったら、触らずに待てばいいです」
「それなら、できそうです。正直なところ触りにいきたいですが」
「触ってよいかを人が決めるというより、猫が近づいてくれるのを待ちましょう」
青年は椅子へ座った。
すぐにクッキーが近づいてきたが、青年が勢いよく手を伸ばすと足を止めた。
「ゆっくり、低いところから」
美帆が言うと、青年は手を引き、膝の上へ置いた。
クッキーは手の匂いを嗅いだものの、今日は膝へ乗らず、隣の椅子へ移った。
「失敗しました」
「クッキーが隣へ座ることを選びました。それを邪魔しなかったので、失敗ではありません」
リリーは少し離れた棚から見ている。テプは別の客の膝で眠っていた。猫専用スペースの入口には福の目だけが見えたが、すぐ奥へ消えた。
青年は誰にも触れず、猫たちを眺めた。
「写してもいいですか?」
「光を当てず、猫の進む場所をふさがないなら大丈夫です。ただ、隠れている子を撮るために寝床をのぞかないでください」
青年は記録用の小さな画板を取り出したが、すぐには描かなかった。目の前の猫を画面や絵の中へ収めることより、今していることを見る方を選んだ。
チャオが伸びをする。ルーが長い毛を揺らしながら水を飲む。
デンが通路の中央へ寝転び、全員の遠回りを発生させる。
青年は、猫の名前を一匹ずつ美帆へ尋ねた。
白い体にキジ模様のある大きなデン。片目のテプ。八匹の家族の長老リリー。説明を聞くうちに、青年は「かわいい」以外の言葉で猫を見るようになった。
「あの黒猫は?」
猫専用スペースの扉の前に、福がいる。
「福です。人がいる時間は、あの中で過ごすことが多いです」
「あまり出てこないんですね」
「まだあまり人に慣れていませんので。人に慣れていない子たちは隠れ場所にいることが多いです」
青年は猫用の小さな入口から距離を取り、それ以上のぞき込まなかった。
触らないというよい選択が、少しずつ増えていった。
「触れなくても、楽しみはいろいろですね」
しばらくすると、クッキーが隣の椅子で前脚を折りたたんだ。青年は手を出さない。
クッキーの耳は前を向き、尻尾も強く動いていない。けれど、眠り始めた猫をわざわざ起こしてまで触る必要はない。
帰る時間になり、青年は椅子から静かに立った。
その拍子に、クッキーも目を覚ました。青年の手へ鼻先を近づけ、匂いを嗅ぐ。
青年は動かなかった。
クッキーは頬を指先へ一度だけ触れさせると、また椅子へ座った。
「今、触れました」
「クッキーさんも心を開いてきていますね」
青年の声はうれしそうだったが、追いかけてもう一度触ろうとはしなかった。
「抱っこまではできませんでした」
「抱っこは猫次第ですからね」
「また来たいです。次も見るだけかもしれませんけど」
扉の前で青年が振り返る。
「次に来ても、今日のように近づいてくれるとは限りませんよね」
「はい。その日の猫が決めます」
「それなら、次の楽しみに取っておきます」
隣の椅子にいたクッキーが、片目だけを開けて見送った。
触れ合うことは、必ずしも触ることではない。
同じ場所で、相手が選んだ距離を守って過ごす。それも猫との時間だった。




