第19話 クッキーの水飲み場
「クッキーが、水を飲んでいません」
美帆は朝の記録帳を持って紬のところへ駆け込んだ。
クッキー用の水入れが、昨夜からほとんど減っていない。二十一歳になる高齢猫だ。異世界では老化が極端にゆっくりになっていても、病気にならないわけではない。
「食事と排泄は?」
「食事は全部食べています。トイレも使っています」
「では、ほかの水飲み場も確認しましょう」
店内には複数の水入れがある。低い皿、少し高さのある器、広くてひげが縁へ当たりにくい器。それぞれ印をつけ、どのくらい減ったか記録していた。
けれど、どの器にもクッキーが飲んだと分かる変化はない。
多頭で暮らす店では、器の水が減っていても、どの猫が飲んだのかまでは分からない。反対に、ほとんど減っていなくても、食事に含まれる水分を多く取っている場合もある。
美帆は朝からクッキーの後を追いかけようとした。
「見張られていたら、いつもと違う行動をするかもしれません」
セティに止められ、少し離れた場所から観察することにした。クッキーが移動した時刻、食事をした量、トイレへ入った回数を記録する。
一時間後、美帆の記録帳には、ほとんど同じ言葉が並んだ。
『寝ている』
『向きを変えて寝ている』
『客の膝で寝ている』
「これって健康確認になっていますか?」
美帆は不安になり、紬に聞く。
「普段どおり眠れている、という記録にはなります」
「治療師さんを呼びますか?」
「必要なら呼びます。その前に、今日はクッキーの行動を見てみましょう」
クッキーはいつもどおり受付の椅子で眠り、初めて来た客の膝へ移り、昼過ぎには窓辺へ向かった。
その途中で、壁際の低い台へ上がる。
台には短い蛇口があった。クッキーが鼻先で金具へ触れると、青い魔石が光り、細い水が流れ出した。
クッキーは蛇口へ直接口を近づけ、水を飲み始めた。
「そこから飲んでいたんですか」
美帆が声を上げると、クッキーは水を飲むのをやめ、迷惑そうに振り返った。
「触れたときだけ、水の魔石が反応する仕組みがわかっているみたいですね」
地球で使っていた自動の蛇口を参考に、異世界の職人が作ったものだという。電気は使わず、猫が鼻先や前脚で触れると必要な量だけ水が流れる。
蛇口の受け皿は毎日洗い、水の通り道も定期的に清掃する。流れているから常に清潔とは限らない。魔石の力が弱くなっていないか、触れていないのに水が出続けていないかも点検項目だった。
美帆が受け皿を外すと、クッキーはすぐ隣へ座った。
「今から掃除です。少し待ってください」
クッキーは蛇口を鼻で二度押した。水が出ない。
「故障ではありません」
三度目に押そうとするクッキーを紬が抱き上げた。膝へ乗るのは好きでも、人に抱えられて待つのは不満らしい。低い声で一度鳴いた。
掃除を終えて受け皿を戻すと、クッキーは改めて水を飲んだ。
「水入れが減っていないから、飲んでいないと思いました」
「器の値だけでなく、どこで、どう飲んでいるかも見ないと分からないことがありますね」
流れる水を好む猫もいれば、動かない水を好む猫もいる。クッキーが蛇口を使うからといって、すべての水入れを片づけることはしない。
午後、美帆は蛇口を使った回数も記録できるよう、水の魔石の横へ小さな計数石を置いた。
飲水量だけでなく、尿の回数、食欲、体重も一緒に確認する。急に水を多く飲むようになった場合も、まったく飲まなくなった場合も、体の変化が隠れていることがある。
高齢のクッキーには、蛇口まで無理なく上がれるよう低い段を置いた。今は軽々と上がれても、ある日ためらうようになれば、それも体調や足腰の変化を知る手がかりになる。
「飲んだ場所だけでなく、そこまでどのように行動を記録するんですね」
「毎日見ている人だから気づける変化があります。台に飛び乗れないときもありますね」
「クッキー、もう一度飲んでください」
美帆が頼んでも、クッキーは答えない。
空いている客の膝を見つけ、そちらへ歩いていった。
計数石が次に光ったのは、誰も見ていない夕方だった。




