第18話 長毛猫『ルー』
美帆の膝には、茶色と白の毛が山になっていた。
「こんなに抜けて大丈夫ですか?」
目の前では、茶白の長毛猫ルーが不満そうに尻尾を動かしている。
「換毛期ですから、ある程度は抜けます。でも、皮膚が見えるほど抜けたり、同じ場所ばかりなめたりするなら確認が必要です」
紬は抜け毛を指で分けた。皮膚の赤み、ふけ、小さな傷がないかを見る。
「もう少し、お腹もとかします」
美帆がブラシを近づけると、ルーは後ろ脚でブラシを押し返した。
「嫌だそうです」
「でも、まだ半分しか終わっていません」
「一度に全部終わらせる必要はありません」
紬は、ルーが落ち着いている背中を数回だけとかし、手を止めた。ルーは逃げずに、その場で毛づくろいを始める。
長毛猫は、脇、胸、腹、後ろ脚の内側に毛玉ができやすい。けれど嫌がる猫を押さえ込み、無理に引っ張れば、皮膚まで痛めてしまう。
紬はブラシを二種類並べた。抜けた毛を集めやすいものと、毛先のもつれを少しずつほどくものだ。
「道具が多いほど、きれいにできますか?」
「猫の毛質と、嫌がらずに使えるかで選びます。よい道具でも、その子が怖がるなら練習が必要です」
まず、ブラシをルーの前へ置いて匂いを嗅がせる。次に背中へ一度だけ当て、おやつを小さく与える。ブラシを見るたび逃げるようになる前に、嫌がらず終われる回数で止める。
「毎日少しずつ、ですか」
「できない日があっても構いません。眠いとき、遊びたいとき、触られたくないときがありますから」
美帆は記録帳へ、今日は背中と胸、明日は状態を見て脇、と書いた。一回の手入れで完璧にするのではなく、何日かに分けて全身を確認する。
「毛を短く刈ってしまえば、手入れは楽になりますか?」
「必要な治療や、どうしてもほどけない毛玉がある場合を除いて、暑そうという理由だけで急に全身を刈るのは勧めません。被毛は皮膚を守り、体温を調整する役目もあります」
暑さへの対策は、風が通る場所と涼しい床、十分な水を用意し、猫が自分で居場所を選べるようにする。長い毛だけを原因と決めつけず、呼吸や食欲、動き方も見る必要があった。
「固い毛玉は、はさみで切ればいいですか?」
「猫の皮膚は毛と一緒に引っ張られます。皮膚との境目が分かりにくい毛玉へ、家で無理にはさみを入れるのは危険です」
必要なら治療師や、手入れに慣れた人へ相談する。小さな毛玉のうちに見つけ、猫が我慢できる短い時間で少しずつ手入れする。
毛づくろいで飲み込む毛が増える時期には、吐いた回数や便の状態、食欲も確認する。ただし、何度も吐くことを「毛玉だから」と決めつけず、元気がない、食べない、排泄がないなどの変化があれば治療師へ相談する。
ブラッシングは、見た目を整えるだけではない。手で体へ触れることで、小さな傷、腫れ、痛がる場所を見つける機会にもなる。
「ルー、健康確認もしていますので我慢してね」
美帆が説明しても、ルーはブラシへ猫パンチを一度だけ当てた。
「説明には納得していないようです」
ルーは休憩を挟み、おやつを一口食べてから、反対側の背中もとかさせた。
「終わりました」
美帆が集めた毛を丸めると、小さな猫ほどの大きさになった。
「ワシも頼ム」
デンが横から割り込んできた。
大きな体を、美帆の前へ横たえる。白い毛の両脇には、クラシックタビー模様の大きなハートが見えた。
「デンまでやったら、閉店まで終わりません」
「ワシの毛並みは店の財産ダゾ」
ブラシを一度通しただけで、白とキジ色の毛がごっそり取れた。
「もう一匹、デンが作れそうです」
「二匹分の食事を要求スル」
「抜け毛には必要ありません」
セティが即座に答えた。
ルーは離れた棚へ移り、増えていくデンの毛を見下ろしている。
自分の番が終わったことに安心したのか、長い尻尾を前脚へ巻きつけ、ゆっくり目を閉じた。
床の毛はまだ減らない。
ブラッシングが終わっても、掃除はこれからだった。
美帆が箒を持つと、ひと固まりの毛が風に押されて廊下へ逃げた。ルーは目で追っただけだったが、デンは獲物のように前脚で押さえる。
「せっかく集めたのに」
「動く毛は捕らえるのが礼儀ダ」
手入れを短く終えることには成功したが、抜け毛との付き合いに終わりはないらしい。




