第17話 トライアル終了
一か月のトライアル最終日、連絡板には一枚の絵が届いた。
窓辺に座るニノと、その少し後ろで本を読む少年。以前の五本脚の猫とは違い、今度のニノはきちんと四本脚だった。
『昼間も部屋から出るようになりました。まだ抱っこはできません。でも、夜は僕の布団の足元で寝ます』
美帆は受付の紹介札を見た。
『ニノ トライアル中』
「今日で、この札を外すんですね」
「その前に、最後の確認です」
紬たちは家を訪れた。ニノは隠れ箱へ逃げず、少年の近くから美帆たちを見ていた。
食事、飲水、排泄、体重。玄関と窓の脱走対策。家族が困っていることはないか。ニノに無理をさせていないか。
連絡板の記録も、一日ずつ確認した。
最初の三日間、ニノは人がいる前ではほとんど食べなかった。七日目には少年が本を読んでいる間に水を飲み、十二日目には昼間も隣の部屋へ出た。二週間目の訪問後は、行動できる範囲を一部屋ずつ広げている。
一度だけ、玄関の仕切り扉が完全に閉まっていなかった日があった。ニノは近くまで来たが、父親が気づいて外扉を開ける前に閉め直した。その出来事も隠さず、連絡板へ書かれている。
「失敗を書いたら、譲渡してもらえなくなると思いましたが正直に書きました」
父親が言った。
「失敗が一度もない家はありません。大切なのは、猫が外へ出る前に気づいたということです。同じことが起きないよう気を付けましょう」
家族は仕切り扉へ、閉まると色が変わる魔石をつけていた。誰が見ても、施錠されているか分かるようになっている。
「朝、私が起きる前に、ごはんの置き場所で待っているんです」
母親が言った。
「かわいくて、かわいくて、少し早起きになりました」
「生活のリズムがよい方向に変わりましたね」
紬はにっこりとほほ笑む。
少年が床へ座ると、ニノが近づいた。手の匂いを確かめ、隣へ座る。触られるのは短い時間だけ。抱き上げようとすれば、今でも離れていくという。
「抱っこできなくても、家族になれますか?」
「もちろんです。ニノが嫌がることをしないのも、家族の大事な役目です」
正式譲渡の記録には、健康状態だけでなく、好きな食事、落ち着く場所、苦手な触られ方も書き添えた。
今後の治療費、旅行や引っ越し、家族の生活が変わった場合についても、もう一度確認した。少年だけに世話を任せず、大人が最後まで責任を持つこと。病気や怪我があれば治療師へ相談すること。迷子になったときは、すぐオハナにも知らせること。
「はい!」
少年が大きく返事をする。
「ありがとうね。大切なことなので、正式譲渡の日にも確認することになっています」
少年は真剣な顔でうなずき、自分の名前を記録へ書き加えた。ニノの食事を毎日確認する、という約束も添えられていた。
店へ戻ると、美帆は紹介札を外した。
使っていた食器や毛布を片づけると、棚に小さな空間ができた。そこへ別の猫をすぐ入れることはしない。洗えるものを洗い、傷みを確かめ、次に使う猫の性格に合わせて配置を考え直す。
「ニノの場所が、なくなったみたいですね」
「店の寝床は空きましたが、ニノがここで暮らしていた記録は残ります」
紬は体重表と健康記録を写し、原本を保管棚へ戻した。正式譲渡は記録の終わりではなく、これから届く暮らしの記録の始まりだった。
空いた場所へ、新しい札をかける。
『ニノ 正式譲渡』
その下には、少年から届いた窓辺の絵を飾った。
「寂しくないですか?」
美帆が尋ねると、紬は絵の中のニノを見た。
「寂しいですよ。でも、会えなくなるわけではありません。それにまだまだたくさんの出会いと別れがあります」
旅行や入院のときには、一時預かりで戻ってくることがある。暮らしに困ったときは、連絡をもらう。どうしても飼い続けられなくなったときには、オハナが引き取る。
譲渡は、関係が終わることではない。
その日の閉店前、連絡板に短い文章が浮かんだ。
『ニノは、今日も窓から外を見ています』
美帆は『こちらではクッキーが受付で寝ていますよ。また遊びにきてくださいね』と書き返した。
違う家で暮らしていても、同じオハナの一日は続いていた。




