第16話 一か月
ニノを預ける前に、紬は一枚の黒い板を家族へ渡した。
同じ形の板が、オハナの受付にも置かれている。
「これは連絡板です。こちらへ専用の筆で書いた文字が、店にある板にも浮かびます」
少年が自分の名前を書くと、少し遅れて受付側の板にも同じ文字が現れた。
「毎日、ニノの様子を知らせてください。食事と水、排泄、吐いていないか、どこで過ごしているか。困ったことや気になることも書いてください」
「絵も送れますか?」
「簡単なものなら」
少年はニノらしい猫を描いた。耳はとても大きく、脚は五本あった。
「最近書き始めたのですがまだわかっていなくて。これは送らない方が」
父親が言ったが、オハナ側の板にはすでに五本脚のニノが浮かんでいた。
笑い声がしても、本物のニノは運搬籠から出てこない。
少年の表情が曇った。
「僕の家、嫌なのかな」
「知らない場所では、動かないことで自分を守る猫もいます。今日出てこなくても、トライアルの失敗ではありません」
紬は、最初から家中を自由にさせず、この一室だけで過ごさせるよう説明した。無理に籠から出さない。隠れ箱へ入ったら手を入れない。家族がいない間にも、食事や排泄ができているか記録する。
「人がいなくなると出てくるはずなので安心してください。二週間ほどしたら、もう一度訪問します。それまでにも、気になることがあれば連絡してください」
オハナへ戻った夜、連絡板の縁にある石が光った。
美帆と紬が板をのぞき込む。
『人が部屋から出たあと、籠から出ました。ごはんを半分食べました。トイレも使いました』
文章の下には、今度は脚が四本の猫が描かれていた。
「食べたんですね」
「まずは一安心です。でも、明日も同じとは限りません。毎日の様子を見ます」
その後も報告は続いた。
三日目。人がいる間は隠れ箱から出てこない。
五日目。夜中に部屋を歩き、窓の外を見ていた。
七日目。少年が床で本を読んでいると、箱の入口まで出てきた。
十日目。食事を残したが、翌朝には元の量へ戻った。
小さな変化が、連絡板へ一行ずつ積み重なった。
二週間目、紬と美帆は再び家を訪れた。
ニノは隠れ箱の中にいた。けれど前回とは違い、箱の奥へ体を押しつけてはいない。美帆たちが部屋へ入っても、入口から顔を出したままだった。
「夜になると元気なんです。でも、昼はほとんど隠れています」
母親が心配そうに言った。
「食事と排泄は?」
「毎日できています」
「それなら、今は夜の静かな時間に家の中を確かめている段階かもしれません。昼間に出そうとせず、ニノが安心できる時間を増やしましょう」
少年にも気になることがあった。
「そろそろ、ほかの部屋にも出していい?」
紬は、ニノがこの部屋を安全な場所として使えていることを確認した。それから、家族が見守れる時間に隣の部屋だけを開放し、怖がったら自分で戻れるよう扉を閉めない方法を提案した。
問題が見つかったからといって、すぐにトライアルを終わらせるわけではない。猫と家族の両方から話を聞くように様子を見て、暮らし方を調整する。
「一か月が過ぎて正式譲渡になったら、もうオハナへ相談できないんですか?」
父親が尋ねた。
「いいえ。どんなことでも相談してください。また、旅行や入院でお世話ができないときは、オハナから譲渡した猫に限り、一時的にお預かりできます。どうしても最後まで一緒に暮らせなくなったときも、ほかの人へ勝手に渡したり、外へ放したりせず、私たちへ相談してください。オハナで引き取ります」
「譲渡したら、終わりじゃないんですね」
「はい。お店の名前のオハナは、ハワイの言葉で家族という意味なんです」
紬は、隠れ箱からこちらを見ているニノと、その前に座る家族を見た。
「家族は、同じ家に住んでいる人だけではありません。血のつながりを越えて支え合う親しい人や、友人、仕事の仲間も、大切なオハナになれます。この店では、猫たちも、猫を迎えた方たちも、その暮らしを支える私たちも、みんな一つのオハナだと思っています」
少年が箱から少し離れた床へ座った。
しばらくすると、ニノが前脚を踏み出した。
少年は手を伸ばさない。ただ、隣へ座れる場所を空けて待っている。
「ですから、譲渡はさようならではありません」
紬はほほ笑んだ。
「新しい家族が、私たちのオハナに加わる日なんです」
ニノは箱から出ると、少年の手が届かないぎりぎりの場所へ座った。
一か月の約束は、まだ半分。
けれど、家族になるための時間は、もう始まっていた。




