帰る場所
息がうまく吸えなかった。
美帆は店の前に座り込み、石畳へ両手をついた。
通り過ぎる人たちがこちらを見る。長い耳。毛に覆われた腕。鳥のような翼。仮装では説明できない姿ばかりだった。
「ここ、どこ……?」
「まず中へ戻りましょう」
追ってきた紬が、美帆の前でしゃがんだ。腕を引いたり、立つよう急かしたりはしない。
「立てそうですか?」
美帆は首を横に振った。
「では、落ち着くまでここにいますね」
隣にはデンもいた。座っていても大きい。太い尾を前脚へ巻き、通行人から美帆を隠すように位置を変えた。
しばらくして、美帆は紬の手を借りた。
店内へ戻ると、クッキーはさっきまで美帆が座っていた椅子の上で待っていた。こちらを見て一度だけ鳴く。
「猫の部屋は刺激が多いから、こちらで話しましょう」
紬はカフェの隅の席へ美帆を案内し、温かいココアと水を置いた。
「飲めそうな方を、少しずつで大丈夫です」
美帆は両手でカップを包んだ。
「ここは、日本じゃないんですか」
「違います」
「外国でもない?」
「地球でもありません」
あまりに現実離れした答えなのに、外の光景を見た後では笑えなかった。
「この国には私たちのような人間のほかに、獣人やエルフ、精霊と呼ばれる人たちが暮らしています。デンはケット・シー。この国を守護する存在です」
「守り神と呼ばれることもアル」
デンは美帆の隣の床へ伏せた。それでも頭の位置が椅子の座面に近い。
「瀬川さんは……この世界の人なんですか?」
「紬でいいですよ。私は東京出身です」
「東京?」
「地球では、保護猫カフェを営んでいました。ある日、店と猫たちごとこの世界へ移ってしまったんです」
紬は、自分がこの世界へ来たときのことを簡単に話した。
いつものように猫の世話をしていたとき、外が突然明るくなったこと。扉を開けると東京の街が消えていたこと。たまたま近くに居合わせていた人が、先にこの世界へ来ていた日本人で、その人と現地の人々に助けられ、ここで店を再開したこと。
「帰る方法は?」
「まだ見つかっていません」
美帆はカップの中を見つめた。
「でも、あなたが帰りたいなら、もう一度探します。王宮にも記録がありますし、私たち以外の地球出身者もいます」
「帰らなくていいです」
自分でも驚くほど早く言葉が出た。
「……即答することではありませんよ」
紬の声は優しかったが、表情はとても悲しい顔をしている。
「だって、帰っても……」
美帆は口を閉じた。
帰ればどうなるのだろう。
入れない部屋。通えない学校。電話に出ない親戚。届かない荷物。
「私、両親がいないんです。親戚の家に住んでいたけど、ずっと邪魔だったと思います。東京の高校へ行けば、一人で暮らせるはずでした。でも、何も手続きされてなくて……」
話しながら、情けなくなった。
「戻っても、行くところがありません」
紬はすぐに慰めなかった。
「帰らないと決めるのは、今日でなくていいと思います」
「でも」
「今夜、眠る場所はあります。食事もあります。明日のことは、明日起きてから考えましょう」
美帆は顔を上げた。
「そんなの、申し訳ないです」
「では、元気になったら少し店を手伝ってもらえますか?」
「働かせてください」
また、考えるより早く答えた。
「掃除でも、皿洗いでも、何でもします」
「まずはお試しです。働くか、学校へ通うか、別の仕事を探すか。後から決め直しても構いません」
「それでも、何かさせてください」
「分かりました。ただし今日はお客様です」
紬がそう言うと、厨房の扉が開いた。
「話は終わったか?」
大柄な男性が顔を出した。エプロンの下からでも身体の太さが分かる。
「厨房を任せているガルネオさんです」
「嬢ちゃん、スープが冷める。食えるうちに食っとけ」
ぶっきらぼうだが、皿にはサンドイッチと温かいスープまで添えられていた。
その後ろから、淡い金色の髪をした女性が現れる。
「セティと申します。接客と猫たちのお世話を担当しております」
完璧なお辞儀だった。けれど、美帆を観察する目はどこか人間離れしている。
「セティは魔法生命体なんです。詳しいことは、また今度」
紬が説明した直後、今度は犬の耳を持つ青年が入ってきた。
美帆を見るなり足を止め、紬の隣へ立つ。
「セン。この人は美帆さん。しばらくうちで過ごしてもらいます」
「……しばらく?」
「そう。お店も手伝ってくれるそうよ」
センは美帆を見た。敵意はないが、歓迎しているようにも見えない。
「ワシもいるゾ」
デンが前脚をカウンターへかけた。立ち上がると、顔がカウンターの上へ出る。
「デンさんは紹介しなくても、十分に目立っています」
セティの言葉に、ガルネオが笑った。
店の空気が少しだけ軽くなる。
美帆はサンドイッチを食べた。スープを口にした途端、急に空腹を思い出した。夢中で食べる美帆を、紬は見ないふりをしてくれた。
食事が終わるころ、紬が紙とペンを持ってきた。
「王宮へ報告するため、地球での情報を記録します。名前は高瀬美帆さん。年齢は十五歳。出身は岐阜県でいいですか?」
「はい」
「こちらへ来る直前、地球では何年何月何日でしたか?」
「2027年4月8日です。今日が高校の入学式のはずで……」
紬のペンが止まった。
「どうしたんですか?」
「私も、店と猫たちが地球を離れたのは、2027年4月8日です」
「今日、この世界に来たんですか?」
「いいえ」
紬は紙に視線を落としたまま答えた。
「私はこの世界で、もう二年近く暮らしています」
同じ日に地球にいた二人が、異世界では二年違う時間に到着していた。




