猫カフェの扉
2027年4月8日。
渋谷のスクランブル交差点には、目的地を知っている人しかいないように見えた。
信号が青になるたび、大勢の人が迷いなく歩きだす。高瀬美帆は、その流れに押されるように交差点を渡り、渡りきったところで立ち止まった。
スマートフォンの電池は残り9パーセント。
高校へ電話をかけても、入学手続きは確認できないと言われた。今日から住むはずだった部屋の鍵も受け取れず、岐阜から送った荷物がどこにあるのかも分からない。親戚へ何度電話しても、呼び出し音が続くだけだった。
財布の中身を数える。
今夜泊まる場所を探したら、明日から食べるお金がなくなる。
「どうしよう……」
口に出しても、誰も振り返らなかった。
人混みから逃げるように細い道へ入り、さらに角を曲がる。さっきまで聞こえていた街の音が、不自然なほど遠くなった。
ぽつりと頬に雨が当たった。
立ちすくみ上を見る。
どんよりとした空は自分の心そのものだった。
そのとき、木の看板が目に入った。
『ねこオアシスオハナ』
看板の下には、丸くなった猫と、小さな花が描かれている。
ビルの一階にある小さな店だった。ガラス扉の向こうは暖かそうで、淡い色の明かりが灯っている。
猫に特別興味があるわけではない。それでも、なぜかその扉から目を離せなかった。
雨脚が強くなる。
「少しだけなら……」
料金を見てから決めよう。そう考えて、美帆は扉を開けた。
白い光が視界いっぱいに広がった。
思わず目を閉じる。
「いらっしゃいませ。ようこそ、ねこオアシスオハナへ」
柔らかな声に、美帆は恐る恐る目を開けた。
カウンターの向こうに、30歳くらいの女性が立っていた。肩の辺りで切りそろえた黒髪に、生成り色のエプロン。店員というより、この場所の空気そのもののような、落ち着いた人だった。
「初めてのお客様ですね」
「はい。あの、雨が降ってきて……」
「ここは猫カフェですが、カフェだけのご利用でも大丈夫ですよ。猫たちと過ごす部屋は、こちらと分かれていますから」
女性が示した先には、ガラスで仕切られた広い部屋があった。
棚の上、窓辺、クッションの間。思っていたよりずっと多くの猫が、それぞれ好きな場所で過ごしている。
駆け寄ってくる猫はいなかった。
眠っている子もいれば、美帆を一度見ただけで毛づくろいへ戻る子もいる。
「猫カフェって、もっと猫が集まってくるものだと思ってました」
「猫にも、その日の気分がありますから。触ってほしい子もいれば、見ているだけにしてほしい子もいます」
女性はそう言って微笑んだ。
「私は店主の瀬川紬です。お名前をお聞きしても?」
「高瀬美帆です」
「美帆さん。雨が落ち着くまで、ゆっくりしていってください」
カウンター席へ案内され、メニューを渡された。
サンドイッチやココアは分かる。けれど、飲み物の欄には見たことのない名前も並んでいた。
「あの、オレンジジュースみたいなものはありますか?」
「オレンジジュースですか……。ありますよ。少し甘めですが、大丈夫ですか?」
「はい。それと、一番安いサンドイッチを……」
言ってから、恥ずかしくなってうつむく。
紬は何も聞かず、「少しお待ちくださいね」と厨房へ声をかけた。
待っている間、美帆はガラス越しに猫たちを眺めた。
一匹のキジトラがゆっくり歩いてくる。緑色の目をした、小柄な猫だった。足取りは静かで、軽さはない。けれど、こちらを見る目には不思議な強さがあった。
猫はガラス扉の前で止まり、美帆を見上げた。
「猫の部屋へ入ってみますか?」
「でも、私、猫の触り方もよく分からなくて」
「触らなくてもいいんですよ。同じ部屋で過ごすだけでも」
紬に教わって手を洗い、注意事項を聞く。
眠っている猫を起こさないこと。追いかけないこと。人間の食べ物を与えないこと。嫌がったら離すこと。
美帆が部屋へ入ると、先ほどの猫が待っていた。
「手を出さずに、少し待ってみましょうか」
しゃがもうとした美帆を紬が止め、近くの椅子を勧めた。
座っていると、高齢猫は美帆の靴の匂いを嗅いだ。それから前脚を美帆の膝へかけ、ためらいもなく上ってきた。
「えっ、えっ?」
美帆は両手を宙に浮かせたまま固まった。
猫は膝の上で向きを変え、当然のように丸くなる。小さく喉を鳴らす音が、手を触れなくても伝わってきた。
「その子はクッキーさん。初めてのお客様の膝にもよく乗るんです」
「嫌がってないですか?」
「自分から乗っていますから、大丈夫。撫でるなら、まず頬の辺りを少しだけ。あと高齢なので腰が痛いこともあるの。やさしくしてあげてね」
美帆が指先でそっと頬へ触れると、クッキーは顔を押しつけてきた。
胸の奥で張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
「かわいい……」
「21歳のおばあちゃんです」
「21歳?」
「ええ。少なくとも、地球にいたときは」
聞き慣れない言い方だった。
「地球にいたとき?」
紬は答えなかった。代わりに、猫たちが一斉に入口の方を見た。
何か大きなものが近づいてくる。
最初に見えたのは、太い前脚だった。
続いて現れたのは、白い被毛に覆われた長い胴だった。左右の脇には、渦を巻くキジ模様が大きなハートの形を作っている。猫に似ている。いや、どう見ても猫なのだが、大きさがおかしい。鼻先から尾の付け根まで、大人の人間の腕より長い。
体長は1メートルをゆうに超えている。
その巨大な猫は美帆の前まで来ると、黄緑色の目でクッキーを見下ろした。
「クッキー、またハジメテの客に乗ってるのカ」
低い声だった。
美帆は周囲を見回した。
「いま、誰か……」
「ワシだ」
巨大な猫が口を動かした。
「……猫が、しゃべった」
「猫ではナイ。ケット・シーだ。デンと呼べ」
美帆の膝で、クッキーだけが何事もないように喉を鳴らしている。
紬が美帆の顔をのぞき込んだ。
「美帆さん。驚かせてごめんなさい。ひとつ確認させてください。あなたは、どこからこの店へ入りましたか?」
「どこって……渋谷ですけども」
紬とデンが顔を見合わせた。
少しの違和感。
美帆はクッキーを紬に預け、猫の部屋を出た。店の扉へ向かい、勢いよく開ける。
さっきまで降っていた雨の痕跡はどこにもない。
それどころか、たくさんのビルも、車もない。
石畳の道を、耳の長い人が歩いている。荷車を引いているのは馬ではなく、角の生えた大きな獣だった。遠くには白い城が見える。
振り返る。
ビルの一階にあったはずの店は、花に囲まれた一軒家へ変わっていた。
木の看板だけが、変わらずそこに掛かっている。
『ねこオアシスオハナ』
渋谷にあったはずの猫カフェは、知らない世界の真ん中に建っていた。




