第14話 猫の部屋
「今日は、奥の部屋を一緒に掃除しましょうか」
開店前、紬は猫カフェエリアの奥にある小さな入口を示した。
福、クー、ムー、よしお、ハルが主に過ごしている、猫専用の安心スペースだ。入口は猫一匹が通れる大きさしかなく、デンは顔を入れることさえできない。
「私もついに猫部屋デビューですね」
「もう猫の扱いにはなれたでしょうから、改めてよろしくね」
紬が壁の一部へ手をかけると、人が通れる裏側の扉が現れた。
「ただし、人が入れるからといって、いつでも入ってよいわけではありません」
扉を開ける前に、紬は中へ声をかけた。
「入りますよ」
返事はない。
当然だと分かっていても、美帆は少し緊張した。
部屋の中には、箱、低い棚、布を垂らした寝床が置かれていた。人の目から姿を隠せる場所がいくつもあり、猫用の入口へ続く通路には何も置かれていない。
「逃げ道をふさがない。隠れている子を引き出さない。大きな音を立てない。掃除は必要ですが、きれいにするために猫を怖がらせては意味がありません」
福は棚の下にいた。緑色の目だけが暗がりに浮かんでいる。
クーとムーは猫用の入口からカフェエリアへ移動したらしい。よしおは箱の上からこちらを見ていた。
ハルは部屋の隅で体を小さくしていた。
美帆と目が合うと、耳が少し横へ開く。
「怖がらせちゃいました」
「見ているだけよ。近づかず、ハルが離れられる場所を残しましょう」
美帆は視線を外し、入口から離れた場所の食器を集めた。食べ残しの量を記録し、水を取り替える。敷物は一度にすべて交換せず、汚れたものだけを新しくした。
「匂いを全部なくさないんですか?」
「自分たちの匂いまで消えると、落ち着かなくなる子もいます」
トイレでは、排泄の回数と状態を確かめた。掃除は単に汚れを取り除くためだけではない。食欲や排泄の変化から、体調不良を早く見つけるためでもある。
同じ部屋で5匹が過ごしていても、誰がどの食器を使い、どのトイレへ入ったかは、いつも分かるとは限らない。そのため、食べ残しだけでなく、猫の口元や腹の張り、歩き方も離れた場所から確かめる。
「福が食べているから、ほかの子も大丈夫、とは言えないんですね」
「ええ。でも、福が先に食べ始めることで、安心して出てこられる子もいます」
福は人を避ける猫たちの中心にいた。何かを命令するわけではない。ただ普段どおりそこにいることが、ほかの猫にとって合図になっていた。
美帆が新しい水を置こうとしたとき、後ろで布がかすかに揺れた。
ハルが動いている。
美帆は振り返らなかった。
足音は壁沿いに進み、福のいる棚の前で一度止まった。それから美帆の背後を大きく回り、食事台の近くへ移った。
触れられるほど近くはない。
けれど、同じ部屋に人がいる間に、ハルが自分から場所を移したのは初めてだった。
「前の飼い主さんにも、あんなふうに近づいていたそうよ」
紬が小声で言った。
「慣れていなかったんじゃないんですか?」
「抱っこはできませんでした。でも、自分から隣へ来て、尻尾を飼い主さんへくっつけることがあったそうです。近くに来たときなら、なでることもできたと聞いています」
人に慣れているか、慣れていないか。
美帆は、その二つだけで猫を分けようとしていたことに気づいた。
膝へ乗るクッキーのような猫もいる。人のいない場所を選ぶ福のような猫もいる。そばには来るが、抱き上げられることは望まないハルのような猫もいる。
「抱っこできることだけが、信頼ではないんですね」
「その子が選んだ距離を、人が守れるかどうかも大切です」
掃除を終え、二人は裏側の扉から出た。
扉の外で、美帆は入室した時刻、交換した水と敷物、食事と排泄の状態を記録した。何も起きなかった日も書き残す。平穏な日の積み重ねがなければ、小さな変化を見つけられないからだ。
美帆が振り返ると、ハルは食事台の前に座っていた。その少し先では、黒猫の福が先に食べ始めている。
福が落ち着いているのを見て、ハルも食器へ顔を近づけた。
扉を閉める直前、ハルの細い尻尾の先が、福の背中へそっと触れていたのを見る。
人にはまだ遠い一歩でも、ハルはこの部屋で、自分のオハナを見つけ始めていた。




