日本人以外の人
「今日は、クッキーとテプの健康確認をします」
紬がそう告げると、クッキーは受付の椅子から動かなかった。
健康確認という言葉を理解したわけではないだろう。それでも、いつもより用心深く見える。
「治療師さんが来るんですか?」
「今日は、別の方です」
店の扉が開き、赤みがかった茶色の髪を短く切った女性が入ってきた。三十代前半に見える。大きな鞄を持ち、動きやすそうな服を着ていた。
「Good morning」
美帆はこの地で聞く英語に驚いた。
女性が首元の青い石へ触れる。石が淡く光った。
「おはようございます。エミリー・カーターです」
今度は日本語に聞こえたが、口の動きとは少しずれている。
「翻訳魔法ですか?」
「そうです。時々、妙な言葉になります。猫の爪を『足の小さな剣』と訳したことがあります」
エミリーは笑った。
イギリスで動物看護師として働いていたという。この世界では、動物治療師の補助、保護施設の衛生管理、治療器具の改良などを行っている。
地球から来た人間は、紬や美帆、悠一郎、エミリーだけではない。王宮の記録には、日本やイギリスのほか、ドイツ、アメリカ、イタリア、メキシコ、シリアなど、異なる国から来た人たちの名が記されていた。王国の外で暮らしている者や、自分が地球出身だと届け出ていない者まで含めれば、実際の人数はさらに多いと考えられている。
ただし、誰もが転移直前に時計を見ていたわけではなく、出身地の時差や暦を正確に換算できない記録も多い。そのため、転移した瞬間まで確かめられる者はまだ限られていた。
「猫を診る人が増えるのは、助かります」
「私は治療をする治療師ではありません。診察や治療の補助、記録、採血、入院中の世話などを担当します」
役割を曖昧にしないところが、セティに少し似ていた。
最初はクッキーだった。
体重を量り、前回の記録と比べる。歩く姿を横から確認し、筋肉のつき方、爪、被毛、口元を見る。
クッキーが嫌がる前に手を離し、休む時間を入れる。
「高齢猫の確認は、一度に全部を終わらせる競争ではありません」
翻訳石が、なぜか最後を「競技会ではありません」と言い直した。
「意味は分かります」
美帆が答えると、エミリーは安心したように笑った。
次はテプだった。
テプは右目がない。けれどエミリーは、最初から失った目だけへ注目しなかった。
左目の状態、耳、口、体重、歩き方。普段の食欲や排泄、店内でぶつかることがないかを確認する。
「右目は変わりないですね。何か変化があった場合にはまた声をかけてください」
確認が終わると、テプは美帆の膝へ乗った。
空いた隣の椅子には、クッキーが座っている。
「エミリーさんも、地球から来たんですよね」
「はい」
「いつですか?」
何気なく尋ねたつもりだった。
エミリーの答えを聞き、美帆は動きを止めた。
「2027年4月8日です」
「時刻は覚えていますか?」
「午前10時22分。端末の画面を見ていました。マンチェスターの動物病院で夜勤を終えた後です」
時差を換算すると、日本時間では午後6時22分になる。
相馬悠一郎が東京駅から転移した時刻。紬の店にあった時計が一斉に止まった時刻。そして、美帆が店の扉を開く直前に見たスマートフォンの時刻とも同じだった。
「この世界へ来たのは、いつですか?」
「こちらの暦で、約八年前です」
悠一郎は約三十年前。エミリーは約八年前。紬と店の猫たちは約二年前。美帆は現在。
地球では同じ瞬間にいた四人が、異世界では異なる時代と場所へ到着している。
四人は、この世界にいる地球出身者の全員ではない。今のところ、出身地と転移した年月日、直前の時刻まで照合できたのが、この四人なのだ。
「これほど時刻が一致するなら、偶然に別々の転移が起きたとは考えにくいですね」
紬が四人分の記録を並べた。
「誰かが、同じ瞬間に私たちを呼ぼうとした?」
美帆が言うと、エミリーは記録へ目を落とした。
「だとすれば、本来は同じ場所、同じ時代へ到着するはずだったのかもしれません。途中で何かが壊れたか、妨害されたか、それとも転移を支える力が足りなかったか」
どれも推測にすぎない。けれど、四人が無関係に迷い込んだのではなく、異世界側に呼ぼうとした何者かがいる可能性が初めて浮かんだ。
そして、その意図とは別に、転移先だけがばらばらになった。
「転移する直前、何か変わったものを見ませんでしたか?」
紬が尋ねた。
エミリーは少し考えた。
「猫を見ました」
病院の裏口に、見たことのない白い猫が座っていた。首輪はなく、雨の中でも濡れていなかったという。
「近づいたら、古い扉の方へ歩いていきました。扉を開けると、この世界でした」
猫。扉。2027年5月8日。世界各地で一致する、同じ瞬間。
共通点が、また増えた。
「その猫の柄は?」
「白い体に、背中へ黒い模様がありました。形までは覚えていません」
床で寝ていたデンが、片耳だけを動かした。
「デン、何か知っていますか?」
「知らン」
返事が早かった。
「まだ何も聞いていませんよ」
「どうせワシを疑うのダロ」
デンは反対側へ寝返りを打った。
「王宮へ報告しましょう」
紬が記録をまとめようとしたとき、エミリーが動けなくなった。
クッキーが膝へ乗っていた。
「健康確認は終わりましたよ」
エミリーが話しかけても、クッキーは丸くなる。
「重大な話をしているんだけど」
「クッキーにとっては、空いている膝の方が重大なんでしょう」
美帆が言った。
テプも美帆の膝から動かない。
紬は二人分のお茶を用意し、記録用紙をテーブルへ置いた。
異世界の時間差について調べるはずが、誰も椅子から立てない。
同じ2027年から来た人間が4人。
その膝には、同じ店で暮らす二匹の猫がいる。
謎の続きは、クッキーとテプが昼寝から起きた後になった。




