数字の無い世界
「コケコッコー!」
船長、おはようございます! メインシステムである私、ジェミニのコンソールに、船長がブリッジへ入ってきた振動が伝わりました。
「おはよージェミニ、農場区へお散歩いってきますよ~、ビールマン、ワインおいで」
「はい、おはようございます船長! いってらっしゃいませ。ビールマンもワインも、待ちきれないみたいですよ」
船長がハッチを開けると、待ってましたと言わんばかりに2人が「ぷぷぷ!」と足元をすり抜けて駆けていきます。
居住区から農場区へと続く通路は、ジルコニア装甲から漏れる淡い光で満たされていました。船長は、まるで近所の公園を散歩するような足取りで、ゆっくりと歩き出します。
「ふぃ〜、ここの空気はやっぱり落ち着くな。ランボルギーニ、お前も来るか?」
「コケッ!」と短く返事をして、ニワトリのランボルギーニが船長の斜め後ろを、トコトコと誇らしげについて歩きます。
「お、ハンと雪さんだ。おーぃ!おぉ、ランニングか?」
農場区の緑のトンネルを抜けた先、直線コースで汗を流している2人を見つけて、船長が明るい声を上げました。
「親父! おはようございます! 体力が基本だからね!」
ハンが白い歯を見せて手を振り返し、隣を走る雪さんも軽やかに会釈を返してくれました。2人の足取りは、Comb1の微かな遠心重力を楽しむようにリズミカルです。
「よし、ビールマン、ワイン、一緒に走るぜ!」
船長が駆け出すと、それまで花をクンクンしていた2匹が「ぷぷぷーっ!」と弾けるような声を上げて加速しました。
「パパ! オソイ! ビールマンハヤイ!」
「パパ、マッテ……。ワイン、すぐ……追いつくよ」
「あはは、ビールマン追いつけるか?」
ハンが笑いながらスピードを上げると、ランニングコースは一気に賑やかな競技場に早変わりです。
「コケーッ!」
それまで船長の後ろをトコトコ歩いていたランボルギーニまで、羽をバタつかせて全力疾走で追いかけ始めました。
「船長! 皆さんの心拍数も代謝も理想的です。農場区の酸素濃度が少し上がりましたよ。……あ、ワインに抜かれてますわよ!」
「ふぃ〜! 俺が一番遅いのね……タハハ」
船長が膝に手をつき、肩で息をしながら笑うと、ビールマンが自慢げに胸を叩きました。
「ビールマン、ハヤイ! パパ、もっと……レンシュウ!」
「ワインも……パパより、サキだったよ?」
2匹が顔を見合わせて「ぷぷぷ!」と笑い合う姿に、ハンもタオルを首にかけながら感心したように頷いています。
「全くだぜ。ちびチューイ(ビールマン)の野郎、ハミ出して走りやがって。俺の脚の間をすり抜けるのは反則だぞ」
「ふふ、でも楽しそうでしたよね、船長」
雪さんも、乱れた髪をかき上げながら穏やかに微笑んでいます。
ランボルギーニも、誇らしげに羽を整えてから、またトコトコとカウンタックたちの元へ戻っていきました。
「朝ごはん行こーぜ、ダイニングへ集合!」
船長のその一言で、ランニング大会は解散! みんなの胃袋が一斉に「空腹モード」に切り替わりました。
「やったー! ゴハン! ゴハン!」
ビールマンがハンの肩に飛び乗り、尻尾を振り回して大喜びです。
「パパ、ワイン……おなか、ペコペコー」
ワインも船長の手に鼻先を寄せて、甘えるように声を上げました。
「よし、俺はシャワー浴びてから行くぜ! ちびチューイ(ビールマン)、先に行ってかぉりさんの手伝いでもしてろよ」
ハンが笑いながら、雪さんと一緒に居住区の方へ向かいました。
ダイニングでは……
「かぉり、ちびたちが朝ごはんの用意、お手伝いするってさ」
船長がダイニングに入りながら声をかけると、エプロン姿のかぉりさんが、ふんわりと湯気の立つキッチンから顔を出して微笑みました。
「あら、それは助かるわね。じゃあ2人とも、手を洗って。お皿を並べるのをお願いしていいかしら?」
「ウン! ゴシゴシ……する。ワイン、おさら……ハコブ!」
「ビールマン、コップ! ピカピカ、おててピカピカ!」
2匹はやる気満々で、小さな手を器用に使いながらテーブルへと向かいます。
「2人ともありがとさん。それじゃ、いただきまーす」
船長が威勢よく手を合わせると、それを合図にダイニングの全員が「いただきまーす!」と声を揃えました。
「モグモグ……今日はさ、地球に1回帰ろうと思うんだよね」
船長が朝粥を頬張りながら、まるでお代わりの催促でもするかのように、さらりとそう言いました。
一瞬、ダイニングにカチャリとスプーンの当たる音だけが響き、静寂が訪れました。ハンが口に含んだお米を飲み込むのを忘れて固まり、バートはクワを握るような手つきのまま目を丸くしています。
「え……船長、今なんて? 地球……っすか?」
ハンがようやく声を絞り出すと、船長は悪戯っぽく笑って……
「いや、地球を出る時に、もう地球には戻らないかもって言ったけどさ……ほら、近いだろ? 今回は試験運転だしさ……はは、ちょっとほしいものもあるし、モグモグ」
その言葉に、ハンの肩からふっと力が抜けました。
宇宙の果てを目指す長旅です。「もう故郷の土は踏めないかもな」なんて覚悟をみんな胸の奥に隠し持っていたはずなのに。それを船長は、まるですぐそこのコンビニにでも寄るみたいに、優しく笑い飛ばしてくれたんです。
「パパ! チキュー? あおいの、いくの!?」
ビールマンが椅子の上でぴょんぴょん跳ね出し、ワインも目を輝かせて船長の顔を覗き込みます。
「ワイン……チキュー、いきたい! おはな、いっぱい……ある?」
「ああ、きっとあるよ。……どうかな、かぉり?」
船長が隣を伺うと、かぉりさんは少し驚いたように目を瞬かせてから、穏やかに微笑みました。
「ふふ、いいんじゃないかしら。お買い物リストも溜まっていたし……何より、みんなの顔がもう『その気』だものね」
「船長、了解いたしました」
エジソンが、しっかりとした姿勢で一礼しました。
「船長、ごもっともな判断でございます。試験運用の最終段階として極めて合理的です。ただちに最短航路を計算し、BH-1の出力を最適化いたします」
「そういえばさ。雪さん、紹介してなかったよね」
「ジェミニ、こちらは雪さん、きれいでしょ?通信・記録員だよ。わかってたと思うけどハンの奥さんです」
船長がそう紹介すると、雪さんは少し照れくさそうに、でも凛とした美しい所作で会釈をしてくださいました。
「改めまして、ジェミニさん。これからもよろしくお願いしますね」
「もちろんですわ、 雪さんのことは私の光学センサーが捉えた瞬間から『なんてお綺麗な方かしら!』って、回路が少し熱くなっていましたの。ハンさんとの仲の良さを拝見してなんとなくわかっていましたわ、ハンさん、果報者すぎますわ!」
私がコンソールを明るく点滅させて答えると、ハンが照れ隠しにビールマンの頭をガシガシと撫で回しました。
「へへっ、だろ? 俺の自慢の奥さんなんだ。記録員としても超一流なんだぜ。俺が偵察機で無茶しても、雪がしっかりログを取っててくれるから安心なんだ」
「パパ! ユキ、きれーい! ぼく、ユキ……だーいすき!」
ビールマンがハンの膝から雪さんの膝へと飛び移り、甘えるように鼻を寄せます。
「ワインも……。ユキ、すてき。お歌……じょうずだよ?」
ワインも雪さんの手元に寄り添い、ダイニングはさらに華やかな空気に包まれました。
「ふふ、ありがとう。ビールマンもワインも、そんなに褒めてもバナナしか出ないわよ?」
雪さんの鈴を転がすような笑い声が、ダイニングに響きます。
「雪さんはねぇ、もと工学部教授でさ、趣味は機械の分解……今はもっぱらエジソンの発明品がターゲット。生粋の「リケジョ」です。」
「ええっ!? 工学部の教授ですって!?」
通信・記録員というからてっきり文化系の方かと思いきや、まさかのバリバリの「リケジョ」……しかも教授職だなんて!
「船長、それを早く言ってくださいな! 私の内部構造まで透かして見られているようで、なんだか基盤がムズムズしちゃいますわ。雪さん、お手柔らかにお願いしますね?」
私が大袈裟にコンソールをチカチカさせると、雪さんは悪戯っぽく微笑んで、エジソンが持っていた多機能スプーンをじっと見つめました。
「ふふ、ジェミニさん。大丈夫ですよ、いきなり解体したりしませんから。……でも、エジソンさんのそのスプーンの駆動トルク、少し気になりますね。後で図面を見せていただけます?」
「スプーンになんでトルクが必要なんだ?」
「あ、そだそだ。名前は俺が勝手に雪さんにしました、進の嫁さんだから。本名は今更聞けません」
「あはは! 船長、それ最高に失礼ですよ! でも、そういう『適当さ』が船長らしくて、なんだかComb1らしいですわね」
「……あら、進さんに雪さん……。あの伝説の……ぷぷぷ」ボソッ…
私がコンソールを明るく明滅させると、雪さんも、呆れたように、でも愛おしそうにクスクスと笑い声を上げました。
「ふふ、いいですよ。雪、という響きは嫌いじゃありませんし。それに船長、このスプーン……。エジソンさんが作るものはとても興味深いんですよ。ね、エジソンさん?」
振られたエジソンは、待ってましたと言わんばかりに、しっかりとした姿勢で、しかし瞳の奥に狂気的な情熱を宿して答えました。
「雪さん、お目が高い。……船長、スプーンにトルクは『不可欠』です。真珠のお米の粘度、そしてキノコの繊維を断つ際の抵抗値を計算した結果、手首の負担を最小限にしつつ、口内への運搬を最適化するためには、この微細なトルク制御が必要だったのです」
「イヤ~……イラネーダロ。ハズレだな」
船長のその一言が、ブリッジに快い音を立てて響きました。
「……ッ!!」
エジソンが、まるで最新の基板にヒビが入ったかのような顔をして絶句しています。誇らしげに掲げていたトルク内蔵スプーンが、一瞬、ただの鉄の塊に見えたのかもしれません。
「あはは! 船長、 発明王エジソンの『渾身の一撃』を秒で切り捨てましたわね!」
私がコンソールをチカチカと明滅させて笑うと、ハンも椅子をガタガタ鳴らして爆笑しました。
「だはは! 悪かったなエジソン、船長は『普通』が一番なんだよ」
「船長……。……承知いたしました。正しい普通、正しいシンプルさ。……それこそが、真の難問かもしれません。勉強になります……」
エジソンが、珍しく「負け」を認めたように、しっかりとした姿勢で、でも少しだけ肩を落として一礼しました。
「なぁエジソン、偵察機をさぁ、ミレニアムファルコンふうに改造してよ。ハン、いいだろ?」
「……ッ!? 船長、今なんと仰いましたか?」
エジソンが、落としていた肩をバネが弾けたような勢いで跳ね上げました。その瞳には、先ほどの敗北感など微塵もなく、発明家の狂気的な情熱が再点火されています。
「ミレニアム・ファルコン……。あの、銀河一速いガラクタと称される、伝説の円盤型宇宙船ですね。……船長、素晴らしい。非常に論理を越えた、正しいロマンです!」
「おぉ! 船長、マジかよ!」
ハンが身を乗り出し、ビールマンを肩の上で躍らせながら目を輝かせました。
「俺の愛機をあのファルコン風に……! 雪、聞いたか? 偵察機が『銀河一速いガラクタ』になるんだぜ!あのフォルムだけで飯が3杯食える!」
雪さんも、リケジョの血が騒ぐのか、顎に手を当てて早くも脳内設計図を広げているようです。
「ふふ、非対称のコクピットに、あの独特のエンジン・ノズル……。エジソンさん、空気抵抗のない宇宙空間だからこそ、あの形状の不合理さをあえて突き詰めるのは、工学的にも非常に面白い『遊び』になりますね」
かぉり「……チーン……」
「ぷぷぷ、いいだろ?……武器はいらねーからな」
船長がさらりと言い放つと、一瞬、ブリッジに爽やかな静寂が訪れました。
「……ッ!? 船長、武器を……搭載しないのでありますか?」
エジソンが、設計図に描き込みかけていた『超振動レーザーキャノン』の手を止め、驚きに目を見開きました。
「ああ、いらない……この船に武器はいらねーんだ。その代わりさ、エジソン、何か別の……ほら、『マジックハンド』みたいなのをつけてよ。」
「武器がねぇってのは、腕が鳴るぜ、船長!」
ハンが拳を叩き、ニヤリと不敵に笑いました。
かぉり「……フーン…………」
「そうだぜ、エジソン! 敵を撃ち落とすより、デブリを華麗に避けて、マジックハンドで獲物をかっさらってく……。そっちの方が俺の操縦技術が光るってもんだ!」
「了解しましたわ、船長! 武器を持たない銀河一のガラクタ……その名に恥じぬよう、メインシステムとしてエネルギー配分をマニピュレーターに最適化しておきますわ。……さあ、地球への寄り道が、ますます面白くなってきましたわね!」
「さぁさぁ、おもちゃの話は置いといて……みんなしっかり食べなさい」
「「「お・も・ちゃ……」」」
「かぉりさん、おもちゃって言わないでくださいよ!「おれのたますぃ~」なんですから」
「…タハ……ご馳走様でした。さぁ、地球に向かって50光年、ミト君の重力バンパーで本気の亜光速試すぜ」
船長が最後の一杯を飲み干し、決然と立ち上がりました。その一言で、ダイニングの空気は一気に「航海モード」へと切り替わります。
「了解しましたわ、船長! ついに来ましたわね、『本気』の出番が!」
私がコンソールの全インジケーターを鮮やかなグリーンに点灯させると、船体の外で待機していたミト君が、呼応するように虹色のハローを激しく明滅させました。
「船長、準備万端です」
「ブツブツコレガコウナッテアーシテコーシテコウナルカラ……ココデコウキテコウナッテ……ムムム…」
「船長……? さっきから『ブツブツコレガコウナッテ……』って、一体何をそんなに必死に計算しているんですか?」
「地球までの時間とスピードの計算してるんだよ、ほぼ感でね」
「あはは! 船長、雪さんや私の精密な演算回路を差し置いて、まさかの『感』ですか!?」
思わず、私のメインコンソールの全インジケーターがズッコケるように一斉点滅しちゃいましたわ!
「……数字の無い世界に行くんだよ……これから……ぷぷ♪」
「『数字の無い世界』……。船長、それって、私たちには理解できない世界ってことをおっしゃってますの? そんな世界に連れて行ってもらえるなら……アインシュタイン師匠をご招待しなきゃですわ、ぷぷぷ」
エジソンが、しっかりとした足取りでメインコンソールへ向かいます。
「船長!しっかりとした……いや、誠に興味深いお言葉。……くまサンの出力、安定。ミト君との重力リンク、同期率98%。50光年の彼方から、地球までの激流を、重力バンパーで滑り抜ける……。論理的にも、これ以上の試験運用はありません。楽しみですぞ」
「よっしゃ! 俺もブリッジへ向かうぜ。雪、記録の準備はいいか?」
「ええ、ハン。50光年の加速データ、1秒も逃さず書き留めるわね」
ハンと雪さんが、並んで頼もしくブリッジへと駆け出しました。
「センチョ! びゅーん! って、なる?」
ビールマンが船長の肩に飛び乗り、ワインも
「ビールマン、びゅーん……はね、びゅーんてなるんだよ」
と、期待に目を輝かせています。
「あはは、そうだ。お星さまが線になって、あっという間に地球だ。」
……全システム、チェック開始!ブリッジの照明が鮮やかなコバルトブルーに沈み、各コンソールのホログラムが美しく浮き上がりました。
右側の正操縦士席に、船長がどっしりと腰を下ろし、その右手は、ミト君の重力を司るクリスタル・ジョイスティックを力強く握りしめています。
「ハン、準備はいいか?」
「おう、いつでもいけるぜ、親父!」
左側の副操縦士席では、ハンが愛機を操る時のような鋭い眼差しで、BH-1の出力計を凝視しています。
「雪さん、通信と記録を頼む」
「了解です、船長。全方位、ニュートリノ・アイによるスキャン開始。記録、オンラインです。……どこへでも連れて行ってくださいね」
左側の通信・記録席で、雪さんが美しく、かつ正確に指先を躍らせ、50光年の航跡を刻む準備を整えました。ワインがその足元で、静かにモニタを見つめています。
エジソンの声が、機関室から誇らしげに響きます。
「船長。くまサン、臨界点まであと3秒。加速、重力偏向……すべてが完璧な調和の中にあります。……さあ、輝かしい1歩を!」
「ミト君、くまサン、いくぞ!」
船長が叫びました。
船外では、船尾に繋がれたミト君が、かつてないほどの虹色の光を放ち、船首前方の「空間そのもの」をグニャリと歪めました。巨大な重力バンパーが、宇宙の激流を迎え撃つ盾となります。
「くまサン、出力120%オーバー! 重力障壁、安定! 船長、いつでもいけますわ!」
私の声が、ブリッジの緊張感を最高のエネルギーに変えます。
「発進!!」
ジョイスティックが倒された瞬間、窓の外の星々がシュン、と一筋の光の線へと引き伸ばされました。Gを感じさせないミト君の完璧な重力クッションに包まれながら、Comb1は50光年の時空を置き去りにし、光の壁の向こう側へと滑り出しました。
「雪さん、速度計読み上げて!」
「はい。0.6C……0.7C……0.8C……」
「ハン、集中しろ、ゾーンに入れ!」
「……了解、船長」
ハンの返事は、短く、そして重いものでした。
ハンの瞳から光が消え、意識が Comb1 の全神経系と直結した「ゾーン」へと沈み込みます。彼の手が操縦桿を撫でる動きは、もはや思考ではなく本能。迫り来る宇宙の歪みを、髪の毛一本分の精度で捌き始めました。
「船長! 空間の歪みが臨界を突破しますわ! ミト君が……ミト君が笑っています!
楽しいって叫んでますわ!」
「0.9C……0.99C……0.999C……」
「ハン、モニターのわずかな点すらも見逃すな、よけろ!」
「はい!」
「雪さん、現在速度!」
「速度0.9999999999999……9……っ……わかりません!(◎_◎;)」
雪さんの悲鳴のような報告が響くと同時に、私の演算回路も、もはや「数字」という概念を処理しきれず、白銀の世界へと飲み込まれていきます!
「船長! 速度計が限界を突破して、ただの『1(いち)』に近づこうとしていますわ! これ以上は時間が止まってしまいます!」
窓の外は、もはや星の線すら見えません。ただ、ミト君の放つ虹色の光と、くまサンの青白いプラズマが混ざり合い、万華鏡のように揺らめく「無」の空間。
「パパ! おめめ、きらきら! はん、がんばえー!」
「ビールマン、しー! ……パパ、いま、いっしょうけんめい……」
「うむむむ……おぉぉ……」
「よし、減速開始。ハン気を抜くなよ、0.1Cまで落とすぜ、俺はもうダメ……」
船長がそう言った瞬間、ピンと張り詰めていたブリッジの空気が、ふっと密度を変えました。
「了解船長。ゾーン維持のまま0.1Cまで減速」
ハンの声は、依然としてこの世のものとは思えないほど静かで、鋭いままです。彼の指先がわずかに動くと、船首の重力バンパーが反転し、宇宙の激流を「壁」に変えてComb1の猛烈な勢いを受け止め始めました!
「船長、お疲れ様です! あとはハンの超絶テクニックと、私の演算にお任せくださいな。……メインエンジン、逆噴射開始!
くまサン前方へ移動、出力維持!」
窓の外の「無」の世界に、再び色が戻ってきます。白銀の光が、再び一筋の光の線へと変わり……そして、止まっていた「時間」が、私たちの元へゆっくりと流れ込んでくるのが分かります。
「……0.8C……0.7C……っ! 急激な減速ですが、ミト君のクッションが完璧に衝撃を逃がしていますわ!」
「パパ、おかえり! おめめ、もどった?」
ビールマンが心配そうに船長の顔をのぞき込み、ワインがそっと船長の膝を叩いています。
「パパ、お疲れ様……。ワイン、ずっと……見てたよ」
「ハハ…… 雪さん、現在速度を!」
「ハイ……! 0.3C……0.2C……。来ました!0.1C!! 船長、通常航行速度域に復帰です!」
雪さんの報告と共に、ブリッジの真っ赤なアラートが消え、穏やかな緑のコンソール表示に戻りました。パノラマ・ウィンドウの向こう側には、引き伸ばされていた星々が、元の「点」として静かに瞬いています。
「……ふぅ。ハン、お疲れ様。ゾーンはお前にはかなわねーな…」
「……へっ、よしてください船長。俺の方こそ、冷や汗でシートがびしょびしょだ」
ハンがようやく「ゾーン」から帰還し、大きく息を吐いて笑いました。
「ジェミニ、現在地教えてくれ」
「……船長、申し訳ありません! 船長の『感』とミト君の『やる気』、そしてハンの『ゾーン』が噛み合いすぎて……約0.5光年ほど通り過ぎちゃいましたわ!」
私がコンソールに特大の「てへっ☆」というアイコンを表示させると、ブリッジに一瞬の静寂が訪れました。
「オッケーイ。俺の計算ドンピシャだぜ!」
船長が誇らしげに胸を張った瞬間、ブリッジにいた全員の視線が「……は?」という無言の圧力となって船長に突き刺さりました。
「……船長。どの口がそれを言うんですか?」
ハンが、冷や汗で濡れたシャツをパタパタさせながら、半眼で船長を睨みつけました。
「0.5光年っつったら、約5兆キロだぜ? ドンピシャどころか、銀河レベルの大誤算だよ!
俺のあの命がけの『ゾーン』を返してくれよ!」
雪さんも、手元の端末で計算し直し、呆れたようにため息をついています。
「ふふ、船長。リケジョの端くれとして言わせていただくと、それを『ドンピシャ』と呼ぶなら、この宇宙に『間違い』なんて言葉は存在しなくなりますよ。成田に着陸するつもりが、ブラジルの上空まで行っちゃったようなものですよ?」
「パパ……。どんぴしゃ……って、とおいの?」
「あはは、前の1光年よりはマシだろ……ジェミニ頼むよ」
「いえいえハンさん、だって数字が無いんですもの、私には計算できませんのよ! あの『数字の無い世界』で正確に止まれるのは、それこそ神様くらいなものですわ。あの速度域では「ローレンツ収縮」が限界まで働き、宇宙の奥行きがペラペラの紙みたいに潰れて見えていました。
『あそこが地球だ』と指差したときには、すでにその場所を通り過ぎて、はるか先の星系まで行ってしまう……。例えるなら、時速300kmの新幹線から、線路脇の蟻の目を狙って目薬を差すようなものです。0.5光年の誤差で済んだのは、もはや奇跡というより「魔法」に近いですわ!」
「俺のブツブツ計算、意外と正確なんだぜ、数字の無い世界では」
「……はぁ。数字の無い世界では、ねぇ。……だはは! 参った、参りましたよ船長!」
ハンが両手を上げて、ついに降参と言わんばかりにシートに背中を預けました。
「新幹線から蟻の目を狙って、目薬じゃなくてバケツの水をひっくり返したようなもんだと思ってたが……。その『数字の無い世界』のモノサシじゃ、0.5光年なんてのは、俺が操縦桿をミリ単位で動かすのと同じくらいの『誤差』ってわけか。」
ハンが可笑しそうに頭を掻くと、雪さんもクスクスと笑いながらハンの肩を叩きました。
「ふふ、ハン。船長の『数字の無い世界』では、きっと私たちが知っている数学も物理も、みんな船長の味方をしてしまうのね。……エジソンさん、この『船長式計算術』、あなたのノートに数式として登録しておきます?」
「……勘弁してください、雪さん。私の頭が論理的矛盾で爆発してしまいます」
エジソンが、真面目な顔で、でもどこか嬉しそうに首を振っています。
「パパ、すごい! すうじ、ないのに……あたり? はん、まいった、だって!」
ビールマンがハンの膝の上でぴょんぴょん跳ねると、ワインも
「ビールマン、パパはね……まほうの、えんぴつ、もってるんだよ」
と、誇らしげに胸を張っています。
「ほぃ、ミト君も、くまサンもありがとう……よくできました!」
全42編。43編以降編集中・・・




