笑顔
ボクに生きる道を与えてくれた伯爵は、もういない。これからは、何をするにも自分で選ばなければならない。ずっと思い描いてきた未来が、全部幻だったように思えて、ボクは不安になった。
ボクは、何を選べばいいんだろう?
ボクは、何処にいるんだろう?
立っている場所さえ、分からなくなる。砂漠の真ん中に放り出されたような気分だ。砂に埋もれた道を、どうやって探せばいい?
休暇の一日目は、遠い空を見つめて終わった。
休暇の二日目は、居酒屋サリクラーラに顔を出してみた。馴染みの客は喜んでくれて、ここがボクの居場所であるようにも感じた。
休暇の三日目は、何をするわけでもないけど、朝から着飾ってみた。そうすれば、過去の自分を取り戻せるかも知れない。そんなふうに考えた。でも、霧は晴れなかった。
もやもやとしたまま、街を歩いた。何人もの男に声を掛けられたけど、なんか、どうでもいいという気分だった。印象にも残らない男と食事をして、別れた。
その夜も、サリクラーラで働いた。忙しくしている間は先のことを考えずにいられて、楽しかった。
そして四日目の朝を迎えた。本当なら、もう屋敷に戻っていなければならない刻限だ。
ボクは何も選ぶことなく、戻らないことを選んだ。だって、戻れるはずもないのだから。
夕刻には、ジルラーに宛てた手紙を届けさせた。これで本当に戻れないのだと思うと、どうしようもなく寂しかった。
サリクラーラで働いているときは楽しいし、充実感もある。でも、仕事を終えて、ひとりになると、例えようもない空虚な気持ちになった。
自由の空に解き放たれたはずなのに、あまり嬉しくはない感じがした。
何が足りないんだろう?
答えを探しながら、眠りに就いた。
次の日も、同じ朝が訪れた。代わり映えのない朝だ。また同じ一日を繰り返すのかと思うと、何もかもが億劫に思えた。
それでも、おなかは空くから、朝食を取った。
これから、どうしよう。
今まで決して座らなかった伯爵の椅子に、初めて座ってみた。普通の椅子だ。でも、伯爵が座っていた椅子だ。
窓の外を、ぼんやりと眺める。青い空。白い雲。遠くで、鷹が舞っていた。檻の中にいるような気がした。
不意に、扉を叩く音が聞こえた。隣のおばさんかな?
まあ、いいや。気晴らしになるし。
扉を開けると、予期せぬ人物が立っていた。
「奥様! どうして、ここに?」
侯爵夫人セライスタと、クラーニアの姿もあった。
何が起こったのか分からず、ボクは慌てふためいた。ラン=シー様が現れたとき以上の驚きかも知れない。
夫人が、まじまじとボクを見つめている。と思ったら、いきなりボクの胸に両手を押し当ててきた。
「な、何をなさるのです、奥様!」
ボクは咄嗟に身を退いた。鼓動が加速する。
「今はあなたの奥様ではありません。セライスタとお呼びなさい」
と言われても、今まで「奥様」と呼んできた相手だし。いや、そういう問題じゃなくて!
「それで、どのような御用件でしょうか?」
「ラン=シー様が、ミコトは男だなんて仰有るから、確かめに来たのです」
なんて直接的な。もう少し、他の方法は考えられなかったのかなー?
「ミコトさん」
「はい」
「屋敷に戻っていらっしゃい」
ちょっと待って。話が繋がらないんですけど?
「今、御自身で確かめられたはずですが」
「よく考えたら、ミコトが男でも女でも、わたくしには関係ないことでしたわ。だって、わたくしはミコトの淹れた紅茶を飲みたいだけですもの。それに――」
不意に、抱き締められた。このセライスタという人は、いつも不意を食らわせる。そしてボクは、みっともないくらいに慌てふためく。
「奥様」
「ほら、また仰有った。ミコトが側にいないと、落ち着かないの。ミコトが戻ってきてくださらないと、わたくし、毎日ここへ通ってしまうわ」
小さな翼に、ふんわりと包まれるのも悪くはない。もしかしたら、誰よりもボクを必要としてくれている人。この小さな翼を、どうして振り払えようか。
クラーニアと目が合った。微笑んでいる。ボクを、待っている目だ。
この宙ぶらりんの手を何処に持っていこうか、と考えもしたけど、答えはひとつしかなかった。
壊さないように、そっと、ボクはセライスタを抱き締めた。
満ち足りた。よく分からないけど、セライスタの注いだ何かが、ボクの器を満たしてくれた。
セライスタは、何を注いでくれたのだろう。
溢れる何かが、色鮮やかに世界を染めていく。
凄い。凄い。凄い。他に、どう言えばいい?
言葉が、見つからない。思わず、笑っていた。
どうして笑っているのさえ、よく分からなかった。
「ミコトさん」
「はい、奥様」
「わたくしの我儘を聞いてくださる?」
よく晴れた日に、庭で、大理石のテーブルを囲む。
白磁のカップが三つ。紺碧を落とした紅茶に、笑顔が映った。
自分が読みたい物語を書いてみました的な作品です。
こんな趣味に走りまくった作品を、最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
そして、ちょっとでも「分かるよー」と思っていただけたなら、幸いです。