ひと月の期間
薬を飲んでから特に身体に異常はない。烏天狗も副作用が出るのは数刻後と言っていたし、しばらくは何も起こらないだろう。
考える時間ができると、嫌でも火吹家のことを考えてしまう。狒々の妖怪の本拠地から撤退した陰陽師達は無事に火吹家に帰れただろうか。
自分の無事を伝えることも、怪我が治るまではできないだろう。烏天狗に火吹家への伝言を頼むようなお願いは流石にできない。
急に不安が襲ってくる。陰陽術も使えず、見知らぬ場所で妖怪に命を握られている状況は落ち着かない。
数刻経つと烏天狗の言った通り、身体が熱くなってきた。さらに汗が止まらなくなり、呼吸も苦しくなる。烏天狗を呼ぶのは気が引けたが、そんなことも言っていられないほど喉が渇く。
私は布団から立ち上がって部屋を出ようとしたが、足がふらついて倒れてしまった。
足音が聞こえ、襖の向こうに人の気配がした。
襖が少し開いたと思ったら、そのまま烏天狗が入ってきた。
「え、大丈夫!?」
倒れている私を見た烏天狗が声をかけてきた。
「す、すみません……お水を……」
烏天狗の足音が一瞬遠ざかり、すぐに水を持って戻って来た。もらった水を一気に飲み干す。
布団の中に入って目をつぶっていると冷たいものが顔に当たった。
「ひゃっ」
驚いて変な声が出てしまった。
烏天狗が濡らした手拭いで汗を拭いてくれていたみたいだ。
「ありがとうございます、自分でやります……」
烏天狗から手拭いを受け取って汗を拭いた。
目が覚めると朝になっていた。身体には倦怠感はあるが昨夜の高熱は下がったみたいだ。
程なくして烏天狗が部屋にやって来た。
「おはよう。見たところ、熱は下がったみたいだね。良かった。」
「あの、この治療ってどれぐらいかかりますか?」
「昨夜の薬の量で継続するならひと月ぐらいかな。」
「ひと月!?」
あの高熱の苦しみをひと月!?先が思いやられる。ひと月も火吹家と音信不通になることもかなり気がかりだ。烏天狗の口振りだと、薬の量で日数は変動しそうだが、薬を増やしてこれ以上の副作用があるなら、身体が持つ気がしない。それともう一つ……
「烏天狗さん。」
「?」
「烏天狗さんは私の面倒をひと月も見てくれるんですか?」
「そりゃまあ、治るまではみるよ」
……調子が狂う。
「食欲はある?」
「えっと……あります。」
「そっか、じゃあご飯作ったから持ってくるよ。」
「ご飯を……作った……?」
しばらくして烏天狗は湯気の立つ朝食を載せたお膳を運んできた。布団脇にそれを置く。
白いご飯、味噌汁、卵焼き、それに漬物。
「これ食べれそう?粥の方が良さそうならそっちを作るけど。」
「あなたが作ったんですか?」
「うん。」
妖怪がこんなにも人間的な朝食を作るなんて意外だった。目の前に置かれた料理を見て一瞬だけ、食べても大丈夫なのかと手が止まる。が、なんとなく、そんなことを疑うのも馬鹿馬鹿しくなり、考えるのをやめた。
「頂きます……」
美味しい。思わず口元が緩んでしまった。烏天狗に見られていると思って慌てて表情を戻した。
「良かった……」
烏天狗は安堵したような声を漏らし、立ち上がる。
「俺は仕事があるから、家を空けるけど、霊力だけは使わないように。家の中は好きに見て回ってもいいよ。暇だろうし。」
「仕事?」
「料理屋で働いてるんだよ。」
本当に人間の町で働いている……?確かにこの食事を作れたのも、料理屋で働いているなら納得がいくが。
「お昼の分ここに置いておくから。お腹が空いたら食べて。」
それじゃあと言って烏天狗は部屋を出ていった。
朝食を済ませたあと、家の中を見て回った。玄関に鍵はなく、向かいの部屋には私の刀と札もそのまま置かれている。逃げようと思えば逃げられるし、武器すら隠されていない。
まだ出会って一日だ。警戒を解くには早い。
それでも、あの烏天狗からは一度も敵意を感じていなかった。……何なんだろう、このおかしな妖怪は。
そんな烏天狗との生活が、数日続いた。
薬の副作用を除けば、特に何事もなく過ごしている。
烏天狗は朝食と昼食を用意して、仕事に行き、帰って来たら夕食と薬の準備をしてくれている。外の情報が欲しいだろうからと、町で買った新聞を持って帰ってくれることもあった。それ以外では、烏天狗が私に干渉することはなく、食事も別々だった。顔を合わせても二言三言交わす程度で、まともに話す機会はほとんどなかった。
烏天狗が台所で夕食の準備をしている。
「あの……烏天狗さん。」
「?」
烏天狗は手を止め、こちらを向いた。
「どうかした?」
「えっと……夕食なんですが……ご一緒しても?」
「……ああ、いいけど。」
私は台所の横にある茶の間で待つことにした。
程なくして、烏天狗は茶の間に食事を運んできた。
烏天狗は、私と向かい合う形で二人分の膳を置いた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。頂きます。」
どちらから話しかけるでもなく気まずい沈黙が流れる。
「……ずっとお話する機会がなかったので聞きたかったんです。」
私が口を開くと、烏天狗がこちらを見る。
「烏天狗さんは、どうして狒々の妖怪のところに?」
「ああ……俺もあの時、狒々の一族を殲滅しに行ったんだよ。着いた時にはほとんど壊滅していて驚いたけど。」
「どうして一族ごと殲滅しようとしたんですか?」
「町で人間を喰らった狒々とたまたま遭遇したから始末したんだけど、その時一人取り逃がしてしまって。俺も烏天狗の一族に属してるから、一族同士の争いに発展する前に、潰しておこうと思ったんだ。」
穏やかな口調とは裏腹に、随分と物騒な話だった。
たった一人取り逃がしただけで殲滅……
「妖怪を殺すことに抵抗はないんですか?」
「そりゃ殺さなくて済むならその方がいいよ。でも確かに、妖怪の命を奪うことに慣れてしまってはいるかな。」
「じゃあ、人間を殺したことは?」
「ない。」
即答だった。
「人間社会で生活する以上、その一線は越えないつもりだ。」
本当のことを言っているかどうかなんてわからない。ただ、人間を殺していないと聞いて安心した自分がいる。
「人間の町で働いているのはどうしてですか?」
「はは。」
烏天狗が小さく笑った。
「質問攻めだな。」
「気になりますから……」
「人間の町で働いてる理由か……妖怪社会に馴染めなかったからかな。随分前からこうやって過ごしてるから、もう当たり前になってる。」
烏天狗は一呼吸置くと、今度はこちらに尋ねた。
「俺も質問していい?」
「はい。」
「君は妖怪を殺すことに抵抗はないの?」
「え……」
正直、考えたこともなかった。
妖怪は人とは相容れないもの。討つことに疑問を持ったことなどない。
ただ――目の前の烏天狗だけは、どうにもそこに当てはまらなかった。
「今まで抵抗を感じたことはないです。」
「そっか。」
「でも……」
少しだけ、後に続ける言葉を躊躇した。
「私を助けて頂いたあなたを殺すのは抵抗があるかもしれません。」
烏天狗は一瞬目を丸くした。
それから、ふっと表情を緩める。
「はははっ。それは良かった」




