九兵衛
「九兵衛、気ぃつけて帰れよ!」
夜中、酒の仕入れ先の店主と飲んだ帰りだった。妖怪騒ぎもかなり収まり、夜中の襲撃もほとんど聞かなくなったが、用心するに越したことはない。俺は早足で家へ向かっていた。
「!」
しばらく歩くと、目の前の路地から人影が現れた。
「兄ちゃん……こんな夜中に外出たぁ、不用心じゃのお。」
突然声をかけられた。背の低い爺さんで、腰を曲げ杖をついていた。禿げた頭は妙に長く、白い髭をたくわえ、瞼が垂れ下がって目はほとんど見えない。
うーわ、どっちだこの爺さん……人間か?妖怪か?妖気は感じないが、見た目がちょっと妖怪寄りだ。俺が失礼なだけか?
「あぁ、まあ仕事なもんで……」
俺はそう言って爺さんの前を通り過ぎようとした。
直後、爺さんが持っていた杖で地面をついた。その瞬間、妖気が膨れ上がり、杖から波紋が広がった。
「やっぱ妖怪かよこいつ!」
俺は反射的に波紋を避けて走った。爺さんは地面を滑るようにこちらを追いかけてくる。
「こいつ、やべえジジイだ……」
背後で爺さんが杖をつく音がした。数歩も進まないうちに足が重くなり、その場に転んだ。
「おいおいまじかよ……」
足を見ると、右足のふくらはぎあたりまでが石になっていた。
「兄ちゃん、不用心じゃのお。」
爺さんが嫌な笑みを浮かべてこちらに歩いてきた。……覚悟を決めるしかないか。妖気を解放しようとしたその時、爺さんの背後から火球が飛んできた。爺さんは小さな悲鳴とともに炎に包まれ、そのまま動かなくなった。
呆然としていると、女がこちらへ歩いて来た。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう、大丈夫だ。」
この着物は陰陽師か……どっちだ……助かったと思っていいのか。女は俺を少し見た後、腰にさしていた刀を抜いて俺の方に向けた。
「あなたも妖怪ですね?」
全然助かってない。むしろ悪くなったかもしれん。
「なんでそう思った?」
「一瞬ですが、あなたから妖気が。」
爺さんと戦おうとした時、少し妖気を出してしまったらしい。
「正直なところ、迷っています。あなたを討伐すべきかどうか。」
「はは、見逃してくれる可能性があるのか?」
「……」
どっちにしろ、この足で逃げるのは無理だし、爺さんを一撃で葬った陰陽師に勝てる気はしない。俺はゆっくり懐に手を入れた。陰陽師は警戒を強めたようだが、まだ何もしてこなかった。俺は懐にあった呼び札を破った。その瞬間、鋭い妖気が懐の中で弾けた。
「!?」
陰陽師が少し怯んだ隙に、懐の短刀を取り出し、石になった自分の足を落とした。足はすぐさま再生し、そのまま全力でその場を離れた。
「……!」
陰陽師が追ってきた。俺の全速力も虚しく、あっけなく回り込まれて進路を塞がれてしまった。
「あんた足速いな。」
「……」
陰陽師は刀を振り上げた。次の瞬間、キィンと金属音が響いた。……優里が刀で陰陽師の一撃を受け止めていた。
「ごめん、こいつ俺の知り合いなんだ。」
「椿さん……?」
陰陽師は驚いた表情を浮かべている。
「なんだ、優里知り合いだったのか。」
そういえば、こいつ陰陽師の女が好きになったって言ってたっけ。
「ああ、もしかしてこの女がお前が惚……うごっ」
言葉を言い終わる前に優里から蹴りが飛んできた。
「つ、椿さん!?」
「ごめんやっぱり、殺していいや……」
「待て待て待て、ごめん、余計なこと言わないから!」
***
外で立ち話をするのもなんだということで、田中九兵衛と名乗った妖怪の酒場に三人で移動した。
当たり前のように人間社会で店を構えていることに驚いたが、二人ともそのことについて一切触れなかったので、私も一旦触れないことにした。
「呼び札……」
田中さんが懐の中で破った札を、机の上に置いて説明してくれた。これを破ると、札から漏れた妖気を辿って椿さんが駆けつけてくれるらしい。妖怪に襲われた時用に、何枚か椿さんからもらっているそうだ。
「こいつ、昼間は二枚破らないと来てくれなくなったんだぜ。」
「当たり前だろ……こっちだって仕事してるんだぞ。」
「タダ酒許してやってんだから助けるのは筋だろ!というか大妖怪が料理屋なんかで働いてんじゃねえ。」
私が破れた札をまじまじと見つめている横で、二人が軽口を言い合っている。
「あの……田中さん……」
「はい。」
「人間を殺したことは?」
「ない。……ないないない。」
田中さんは大袈裟に手を横に振った。
「本当か、お前?」
「お前が疑ってんじゃねえよ。」
この男を信用できる理由があるとしたら、椿さんの友人であるという点のみなのだが、その椿さんが、この男を信用していないようにも見える。
「あの……椿さん……田中さんのことは信用してもいいのでしょうか?」
「……」
「おい!悩むな!」
「人間に害を及ぼさないという点では、信用してもいいと思う。」
「そうですか……」
椿さんはこちらを不安そうな顔で見つめていた。
「大丈夫だ、火吹ちゃん。何かあったら俺がけじめをつける。」
「全然大丈夫じゃねえよ、お前の方がこえーよ。」
「……」
「陰陽師さんよぉ、俺みたいな野良を殺してまわるなんてキリないぜ……人間社会にどれだけの妖怪が潜んでると思ってるんだ?」
「え……」
「俺達は人間に何もしない、だから陰陽師達も俺らには何もしない、それでいいと思わないか?」
「野良とは……?」
「妖怪の一族に所属しない、当主を持たない妖怪のことをそう呼んでるんだよ。」
「椿さんは……?」
「俺は野良じゃない。」
「こいつは頭がおかしいんだよ。普通、人間社会に溶け込んでるのは俺達みたいな力のない野良だ。」
少しずつ、自分が妖怪の世界へ足を踏み入れている感覚がある。人間に害を成さない妖怪まで、私は討伐してもいいのか。
「すぐに答えは出せません。」
「じゃあ、あれだ、見逃してもらう代わりに、タダ酒でも出すぜ。」
「物で釣ろうとするなよ……」
「いえ、お酒は……昨日飲みすぎてしまったので……」
「自覚あったんだ……」
椿さんが小さい声で呟いた。昨日のことを思い出して恥ずかしくなる。
「ごめんなさい。」
私は顔を手で覆った。
「じゃあ陰陽師さん、これならどうだ。」
田中さんはにやにやしながら話を続けた。
「この店、閉店後なら誰もいないし、店主の俺も妖怪だし、ここならこいつと気兼ねなく話せるぜ。正体を隠す必要もない。」
すごく魅力的な提案で、思わず聞き入ってしまった。
「見逃す価値あるだろ?」
「はい。」
「火吹ちゃん……え、いいのそれで。」
「す、すみません。そうですね、それとこれとは話が別です。」
「おい、優里余計なこと言うなよ。」
「でも、今のところあなたを討伐するつもりはありませんから。」
田中さんはその言葉に安堵したようだ。
「確かに椿さんに聞いてみたいこと、色々ありますし、こういう場所があるとすごく便利ですよね。」
「おぅ、こいつのことなら俺も教えてやるぜ。」
「それを危惧してんだろが、お前余計なこと話すなよ。」
「ふふふ。」
田中さんを見逃すと決めて肩の力が抜けたのか二人の軽口に笑ってしまった。




