第10話 『ただ、母さんを迎えに』
「……うっ……あぁ……」
耳に飛び込んできたのは、無数の苦しげな呻き声だった。
泥の上に力なく倒れ伏す兵士たち。担架で絶え間なく運ばれていく重傷者。
血に染まった包帯を巻き、必死に走り回る衛生兵たち。
「……こんな……」
アロンは言葉を失った。
今まで「戦争」というものを、絵本や大人の噂話でしか知らなかった。
魔獣を倒すこと。凄まじい魔法をぶつけ合うこと。
どこか遠い世界のかっこいい物語だと思っていた。
けれど――目の前にある現実は、あまりにも残酷だった。
生々しく傷ついた人間がいる。
痛みに耐えかねて絶望しているエルフがいる。
「これが……戦争……?」
そのときだった。
「み……水……頼む……」
すぐ足元から、擦り切れた声が聞こえた。
ハッとして振り向くと、全身泥と血にまみれた一人の負傷兵が、震える手をアロンへ向かって伸ばしていた。
「水……を……」
「っ!」
アロンは躊躇なく駆け寄った。
「待ってて! 今助けるから!」
慌ただしく荷物袋を引っかき回し、中から小さなガラス瓶を取り出す。
それは旅の道中、道端の薬草を採取し、ため置きした魔導錬金術で精製しておいた手作りの治療薬だった。
まだ数十本しか作れていない貴重な代物だ。
だが、アロンに躊躇は一切なかった。
「これを飲んで!」
負傷兵の口元へ小瓶を傾ける。
「……ごくっ……」
喉が鳴った次の瞬間のことだった。
柔らかな淡い緑色の光が、爆発するように兵士の身体を包み込んだ。
「う……お……!? つぁ……!?」
痛々しく裂けていた胸元の傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように急速に塞がっていく。
溢れていた出血がピタリと止まり、浅く荒れていた呼吸がみるみる穏やかになっていった。
「……き、傷が……」
兵士は信じられない様子で自分の胸をさすった。
「痛みが……消えた……? 治ってる!?」
アロンはその感謝の言葉を聞き届けるより早く、弾かれたように周囲を見回した。
視界の端で、無数の人々が苦しみに身をよじる姿が入ってくる。
「……まだ、こんなにたくさん……」
アロンは勢いよく立ち上がった。
「待ってて!」
次の小瓶を取り出し、近くの負傷兵へ駆け寄る。
「これを飲んで!」
「な、なんだ子供……なにを――」
「いいから早く!」
再び、温かな緑の光が溢れ出す。
「つ、次の人!」
アロンは走った。泥に足をとられながらも、無我夢中で駆け抜けた。
一人。また一人。
「次の人っ!」
小瓶を傾け、練成した薬を飲ませていく。
そのたびに奇跡のような緑の光が弾け、傷を塞ぎ、命を繋いでいく。
「これを……飲んで!」
「……あ……立てる……! 俺、脚が動くぞ!?」
重傷を負っていた兵士が、信じられない顔で自分の足で立ち上がった。
そのあり得ない光景を目撃した周囲の兵士たちが、次第にざわめき始める。
「おい……あいつの傷、一瞬で塞がったぞ……!?」
「なんだあの子供は!?」
「薬を飲ませただけだぞ!?」
「治癒魔法なのか……!?」
「いや……違う!」
最前線で何人も治療してきたベテランの衛生兵が、戦慄した声を上げた。
「上級治癒術師の魔法だって、あんな瞬時に欠損や裂傷を完治させるなんて不可能だ……! 一体どんな奇跡の霊薬を使っているんだ!?」
その叫びを聞いた周囲の負傷兵たちが、一斉にアロンへ向かって必死の手を伸ばした。
「こっちにも頼む! 頼むよ小僧!」
「俺の仲間を助けてくれ!」
「まだ死にたくない! こっちだ!」
気がつけば、アロンの周囲には溢れんばかりの負傷兵の列が出来上がっていた。
「えっ……!?衛生兵さん手をかして!」
一瞬、アロンはあまりの熱量に圧倒され、困惑したように眉をひそめた。
だが、すぐにいつもの真っ直ぐな笑みを浮かべる。
「あ、順番ね! ちゃんと順番に並んで!」
そしてアロンは、汗だくになりながら片っ端から負傷兵たちへ薬を投与し続けた。
――――――――――――――
どれほどの時間が経っただろうか。
「はぁ……はぁ……っ」
アロンの額からは滝のような汗が流れ落ち、膝と指先は疲労で激しく震えていた。
けれど、目の前で助けを求める手が伸びている限り、彼の足が止まることはなかった。
「次の……人……っ」
残りの薬を限界まで希釈し、錬金術の魔力を振り絞って効果を維持させる。
「これを……飲んで……!」
「ありがとう……ありがとう……っ!」
無くなれば草むらへ入っては作り、兵士の傷が塞がり、また一人の命が救われる。
そのあまりにも常識外れで、どこまでも純粋な救済の光景を、いつしか陣地全体が無言で見守っていた。
「なんなんだ、あの子は……」
「黒髪の……ハーフエルフの少年……?」
「神様のお使いか……?」
簡易野戦病院から血まみれの手で出てきた老医師が、目の前の光景にぽかんと口を開け、やがて力なく膝をついた。
「……奇跡だ……」
その震える呟きが、静まり返った拠点に深く染み渡っていく。
老医師は震える足でアロンに歩み寄った。
「君……名前は……? 一体、どこの誰なんだ……?」
アロンは肩で息をしながら、少しだけ考えた。
そして――汗を拭い、いつもの太陽のような笑みを咲かせた。
「僕は……」
胸元に下げた、大切な母の写真が入ったロケットをキュッと握りしめる。
「ただの、お母さんを探しにきたアロンだよ」
「「…………」」
その場にいた全員が息を飲み、静寂が訪れた。
「母親を……探して……?」
「こんな……地獄のような戦場に……?」
誰かが呆然と呟いた、そのときだった。
つづく




