第26話 あかりに伸びる魔の手
【黒い気配】
祖父江・金五郎が黒塗りの高級外車で自宅へ帰ってきた。
もちろん自分で運転などしない、運転手付きだ。
玄関前で静かに車が止まると、助手席に座っていた美人秘書が素早く降りて後部座席のドアを開ける。
「明日の朝は8時にお迎えにあがります」
「分かった」
そう言うと、そのまま玄関へと入っていった。
市長というよりは、大企業の社長や大物政治家のような雰囲気だ。
家に入ると、家政婦と息子の卓斗が彼を出迎える。
妻はこの時間は入浴タイムで、浴室にあるサウナで美容と健康のために汗をかいているはずだ。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「お帰りなさい、父さん」
頭を下げる二人に頷いて答える。
「旦那様、お食事はどうなさいますか?」
「そうだな、書斎に持ってきてくれ」
「畏まりました」
頭を下げて家政婦が下がると、代わりに卓斗が彼の前に進み出る。
「あの、父さん」
「なんだ?」
「少し話したいことがあるんだけど」
「……いいだろう、書斎で聞く」
こうして二人は、屋敷の2階にある金五郎の書斎へ向かう。
書斎と言っても本はそれほどない。
その代わり、立派な執務机と高そうなソファーセットが置かれている。
ソファーに座ると金五郎は、食事が運ばれてくるまでの間、息子から話を聞くことにした。
「で、どうしたんだ?」
彼は、自分が息子から尊敬されているのと同時に、恐れられていることは知っている。
だから、卓斗から話があると言ってきた時は驚いていた。
父親にすすめられ、テーブルを挟んだ反対側のソファーに卓斗が腰を下ろす。
「父さんが大きなすごいことをしていることは知っています」
子供らしい素直な言い方だ。
「そうか」
「だから、その邪魔をする神崎議員を叩きつぶすのは当然だと思います」
「うむ」
「実は今日、神崎・あかりが学校で虐められていました」
それを聞いて、金五郎は内心でニヤリと笑った。
そう言えば、卓斗と神崎議員の娘はクラスメイトだったなと思い出したのだ。
そして、彼の息子のことだから、学校の生徒をうまく先導して神崎の娘を虐めさせたのだろう。それでこそ俺の息子だと思う。
しかし、卓斗の口からは、その正反対の言葉が吐き出される。
「それを俺が助けました」
な、何だと? 金五郎が表情には出さずに驚く。
「ほぅ……で?」
「父さん、僕はクラスメイトに1年生の時に、こう言われました。親がどれほど立派でも、お前が偉いわけではないと。そして、実際にその後、自分の無力さを思い知らされました」
「もしかして、それは……」
「はい、茂野・龍太です」
その子供のことは金五郎もそれなりに知っている。
ヤクザも恐れる小学生として、教頭に命じて担任の川井・良子に監視をさせていたからだ。
ただ、確かに小賢しいところはあるが、所詮は子供でしかなく、情報収集は半年ほどで止めさせている。
例の造成地にメディファルナ社を誘致する計画を進める方が忙しくなったのも、その理由の一つではあるが。
しかし、やはり所詮子供ではあっても、無害ではなかったようだ。
「その茂野という同級生は神崎・誠司の娘の幼馴染だったな?」
「はい、もう一人、室井病院の室井・美月、あと大門・寛太とは幼稚園からの仲だと聞いています」
そうだった。結局、大門組の組長は、自分の子供を茂野・龍太に近付けたのだ。
「で、それがどうしたのだ?」
「僕は父さんを尊敬しています。大人になったら父さんのようになりたいと心から思っています」
「殊勝なことを言うな」
「是非、市民のために神崎議員を倒してください。ただ、僕たちは小学生としての生活を続けます」
「分かった」
金五郎がそう言うと、卓斗はソファーから立ち上がって頭を下げた。そして、そのまま書斎から出ていく。
彼の後ろ姿を優しい笑顔で見送っていたが、ドアが閉じると同時に、その表情が険しくなる。
「しくじったな。最近くだらないことを言ってこなくなったと思っていたが、まさかくだらない正義感に毒されていたとは……」
ただ、茂野・龍太は後回しだ。
先に大きな案件の方を片付けなければならない。それも大至急だ。
「これ以上、バカ息子が生ぬるい馬鹿にならないために、神崎を叩き潰さなければならんな」
そう呟くと、上着の内ポケットからスマホを取り出す。
以前なら汚れ仕事は大門組に頼んでいたのだが、他人任せにするのは止めた。
そして、この屋敷や市役所の警備員として、かなりの人数のプロを雇っている。
そのリーダーに彼は電話をかける。
「俺だ、すまんな、こんな時間に……ところで、最近、登下校中の子供の列に車が突っ込む事故が増えているな……ああ、そうだ、とても痛ましいことだ。子を持つ親として本当に心が痛むよ。しかしだ、そのような事故がこの街で起こっても不思議はないと思うんだが、その被害者が神崎議員の可愛いお嬢さんだったりしたら、本当に悲劇だな。そのような事故が起きないでほしいと、心の底から思うよ」
その声はあくまでも穏やかで、冗談や世間話をしているようにしか感じられなかった。
しかし、どうやら祖父江・卓斗の勇気ある行動は、恐ろしいほど逆効果になってしまったようだ。
電話を切るとスマホをテーブルの上に置き、祖父江・金五郎はソファーから立ち上がった。
そして窓際に立つと、外に目を向ける。
自慢の庭と、そこにある噴水がライトアップされていた。
しかし、それを見下ろす彼の目は、市政を司る者のそれではなかった。
「邪魔者は全て排除する。それが女子供であろうと関係ない。まずは神崎・誠司の娘だ。大門の話だと、おそらくその後、茂野・龍太の背後の組織が報復に出てくるはずだ。しかし、それも叩き潰す」
彼は、大門組を壊滅寸前まで追い込んだのは、その龍太本人とペットの黒柴犬だということは知らない。
「さあ、卓斗。お勉強の時間だ。しっかり学習するんだぞ」
【闇の誘惑】
そこは廃工場のような廃墟だった。
高い天井や壁のあちらこちらに穴が開いており、照明が点いていないのに、その内部に何があるのかぼんやりと見える。
そこにはシルバーの塗装がされた古い型のミニバンが1台と、あと成人男性が二人いた。
それ以外は、ゴミや廃材が無造作に転がっているだけだ。
「ほ、本当に、これで借金をチャラにしてくれるんですね?」
一人の男がかすれる声でそう言った。
油染みがいたるところに残る上着とズボンを穿いていて、その胸には「斉藤製鉄所」と刺繍されている。
ここからは見えないが、彼らがいる廃工場の壁にも同じ名前が大きく書かれていた。
要は、彼はこの潰れた工場の元社長なのだ。
斉藤は左胸の刺繍を握りしめつつ、目の前に立ついかにも怪しい男を上目遣いで見返している。
その男は上下ともに黒のジャケットとズボンを穿いており、薄暗い屋内だというのにサングラスをつけていた。
一見すると外国のボディーガードかギャングにしか見えないが、日本人であることは間違いない。
肉体や精神的にではなく、生きていることに疲れたと全身で意思表示をしている斉藤は、怯え切っている。
目の前の男は、その気になれば彼の人生を簡単に終わらせることができるのだ。
それは社会的という意味ではなく、肉体的にという意味でだ。
黒ずくめの男が右手を前に伸ばして斉藤の首を掴めば、ほんの数秒で人間が生命活動を続ける上で最低限必要な身体機能を奪うことができるだろう。
斉藤は今すぐに泣き叫んで、この場から逃げ出したかった。
しかし、それを実行に移そうとした瞬間に、人生が終わる。
もうこの世に何の未練もないが、それでもせめて人生の最期はベッドか布団の上で迎えたい。
このようなところでそれを迎えたら、死体は魚か土中のバクテリアの餌にされてしまうだろう。
黒ずくめの男が表情一つ変えずに言う。
「もちろんですよ、斉藤さん。あなたは簡単な事故を起こすだけで、人生をやり直すことができる」
「で、でも……」
「交通事故なんて毎日日本中で起きているだろ。死亡事故を起こしても、故意であったり飲酒運転でもしていない限り、ニュースでほんの数秒流れる程度だ。うまくいけば執行猶予がつくし、刑務所に入れられても、ほんの数年で出てこられる」
「で、でも……」
そう言うと、斉藤は自分の隣に停められているシルバーのミニバンを横目で見た。
これは彼が購入したものではない。しかし、今は彼の名義になっている。
全て目の前の男が手配をしていた。
「でも、人を殺すなんて……ましてや相手は子供……」
「斉藤さん、あんた良い人だな。しかし、もう他にあんたが人生をやり直せる方法なんかないって分かっているんだろう?」
「そ、それは……」
彼は大学卒業後に、この鉄工所を父親から受け継いだ。
しかし、真面目以外に何の取り柄もなかった彼は、経営者としては向いておらず、数年前に多額の借金を抱えて倒産している。
妻と娘とは決して不仲ではなかったが、借金の巻き添えにしないために離婚をし、土地や工場の器材を売ったお金は、従業員たちに退職金として渡してしまった。
おかげで今の斉藤には、普通の人間なら人生を一からやり直しても返済しきれない借金しか残っていない。
もう死ぬしかないと途方に暮れていた時、目の前の黒ずくめの男が声をかけてきたのだ。
「ほ、本当に事故扱いになるの……本当に?」
斉藤の魂が悪魔の囁きに誘惑されていく。
「少しスピードを出してカーブに差し掛かったところ、運悪く車が故障をする。それは不幸な事故だ。誰にでも起きることだよ」
そう言うと、黒ずくめの男が右手を突き出してきた。
思わず殴られるのかと思い、斉藤が身を固くするが、その目の前に車のキーが差し出される。
ホッとして息を吐くと、彼がそれを受け取った。
「家族とまた一緒に暮らしたいのだろ? 娘さんを大学に通わせたくないのか?」
「それは……」
冷静に考えれば、借金を肩代わりしてもらう代わりに死亡事故を起こすような人間が、幸せになれるはずがない。
彼の元妻や娘も、決して彼を許さないだろう。
しかし、斉藤の思考は完全に麻痺していた。
他に方法はないと、目の前の男に思い込まされているのだ。
「や、やる」
「そうか、これが計画書だ。しっかり読んでおけ。紙はここで燃やすからな。スマホで撮ったりするなよ。俺の目の前で覚えろ」
「証拠を残さないため……」
「その通り。そして、それがお互いのためでもある」
その後、斉藤は手渡された事故を起こす計画書を読んだ。
生まれてこの方、これほど読んでいて辛い文書は、鉄工所が潰れて差し押さえされた時の通告書以来だ。
いや、あの時より今の方が苦しいかもしれない。
「9歳の女の子……」
彼が事故を起こして命を奪う相手のプロフィールが、写真付きで記載されている。
可愛い女の子だった。正確には、必ず殺せとは言われていない。結果として重傷を負わせるだけでも目的は達成されるらしい。
しかし、手加減だけはするなと言われていた。
それこそ故意に事故を起こした証拠になりかねないからだ。
「もう良いだろう」
斉藤の手が震えだしたのを見て、黒ずくめの男が計画書を取り上げた。
「タイミングはこちらで指示する。それまで指定場所で待機をしろ」
「わ、私は……」
「もう手遅れだ。計画の内容を知った以上、今断れば口封じさせてもらう」
「こ、殺すというのか?」
「お前は最後だ。その前に、お前の嫁と娘が暮らしているアパートが火事になる」
「そ、そんな?!」
「やるしかないんだよ。お前とお前の家族のためにな」
「…………」
斉藤が酔っ払いのような足取りでミニバンの運転席に乗り込んだ。
「これは仕事なんだ」
キーを差し込み、それを回す瞬間、彼が小さな声でそう呟く。
廃工場のシャッターが耳障りな金属音を響かせながら、ゆっくりと開いていく。
黒ずくめの男が右手を上げると、斉藤がアクセルを踏み込んだ。
シルバーのミニバンがゆっくりと動き出す。
もう後戻りはできない。




