第22話 担任の苦悩
【報告は恋の味】
ほのかに頬を赤らめつつ、川井・良子が職員室に帰ると、教頭の寺西・恵三が待ち構えていた。
「川井先生、ちょっと」
そう言うと、彼女を教頭室へ手招きする。
「は、はい」
慌てて返事をすると、彼女は小走りで彼について行った。
寺西教頭はソファーに座ると、彼女に対面に腰掛けるよう、指で示す。
それに従って川井・良子がソファーに腰を下ろすと、腕を組んでさっそく本題に入った。
「で、例の件はどうでした?」
例の件とは当然、茂野・龍太についてだ。
それを聞いて川井・良子はビクッと肩を揺らし、おどおどしながら視線を泳がせる。
頬がほんのり……いや、明らかに赤くなっていて、膝の上で組んだ手の指をモゾモゾと動かしていた。
「は、はい……あ、あの……その」
「まあ、落ち着いて」
寺西教頭が溜息をつきつつ、そう言う。
彼だって本心を言えば、生徒の監視などさせたくはないし、そもそも興味もない。
しかし、市長には逆らえないのだ。
そんな彼の本心など知らずに、川井・良子はモジモジと動かしていた両手をギュッと握りしめ、それを胸元に当てた。
「す、すごく格好良かったです」
「はぁ?」
教頭の目が点になり、頭の上に?マークが飛び出す。
「えっと、格好良かったって、誰が?」
「そ、それはもちろん茂野・龍太君がです。不良を追い払った時も凄かったですけど、ついさっき私に向かって飛んできた野球ボールを、サッと現れてバシッと受け止めて、おまけにグラウンドまでノーバウンドで投げ返したんですよ」
瞳を輝かせ、まくしたてるように言う川井・良子。
その姿は完全に思春期の女の子のようだった。
「…………」
寺西教頭が頭痛をこらえるように眉間を押さえながら、ゆっくりと首を左右に振る。
そして、何かを必死で我慢するような声で、
「川井先生、あなた、まさか生徒を見張るのが嫌だから、適当なことを言って誤魔化そうとしているのではないでしょうね?」
と言い、それを聞いた川井・良子は慌てて両手を前に出してブンブンと振った。
「そんなことはありません。ちゃんと彼の行動を観察していました。龍太君は転んだ子を助けたり、上級生の喧嘩を仲裁したり、木に引っかかった帽子をジャンプして取ったり、それはもう大活躍だったんですから」
「もういいです」
頭だけでなく胃まで痛くなってきた寺西教頭がそう言って、まだまだ龍太について話そうとしている川井・良子の言葉を止めた。
「何で、1年生の男子の報告を聞いて、こっちが胸焼けを起こさなければならないのですか……」
今の彼女は、まるで大好きな推しのアイドルについて熱く語る女子生徒のようだ。
本人もそれに気付いたようで、恥ずかしそうに肩を落として俯く。
「すいません。でも、本当に良い子なのです、彼は」
「分かった、分かりました。今後も引き続き、茂野・龍太君について観察を続けるように。良いですね」
最後はそう言って、川井・良子を教頭室から退室させた。
おそらく祖父江市長が欲しいのは、茂野・龍太の悪い情報だろう。
小学1年生の男子が何かしたからと言って、たかが知れているとは思うが、彼自身というより、それに関わる誰かの弱点につながる何かを知りたがっているのだ。
どうせなら、そこまで教えてくれたら、こちらもポイントを絞って情報を集めることができるのだが、よほどのことがない限り、こちらから市長に連絡はできない。
「ハァ~、胃が痛い」
帰りにドラッグストアで胃薬を買おうと考える寺西・恵三だった。
【ファミレスにて】
日曜日の夕方。
川井・良子は彼氏と週末デートを楽しんでいた。
彼氏の名前は吉田・茂と言い、大学時代からの付き合いだ。
大学卒業時に川井・良子が教師になり、彼氏の吉田・茂は市役所に就職している。
お互いに公務員カップルと手堅い人生を歩んでいるが、実は最近、彼氏の方が少し元気がない。
店内は夕食にはまだ少し早いため、客はそれほど多くはない。
川井・良子と吉田・茂のカップルは、昼間は映画を観たり買い物をしたりして楽しみ、今はこの店で休憩中だった。
ここで時間を潰した後は、居酒屋に行って大いに飲みまくる予定だ。
しかし、どうも彼氏の様子がおかしい。
「最近、元気ないね」
別れ話を切り出されるような雰囲気ではなかったので、彼女の方からそう聞いてみた。
すると吉田・茂が少し驚き、そして曖昧に笑う。
「ごめん、顔に出てた?」
「顔というより、全身にね」
「そうか……実は仕事で色々あってさ」
川井・良子の彼氏は、外見は人並みで決して優秀な人間ではないが、真面目で我慢強く、どれだけ大変なことがあっても、決して周囲に愚痴をこぼしたり、泣き言を言ったりしなかった。
そういうところが自分に合っていると思ったからこそ、川井・良子は大学時代に彼の告白を受け入れたのだ。
そのような彼が、ここまで疲れているということは、本当に大変なのだろう。
「色々って?」
「う~ん」
少し考え込んでから、彼氏がコーヒーに口をつけ、ぽつりと言葉を漏らす。
「市長なんだけど……あの人、外面はとてもよくて評判が良いけど、市役所の中だと、ちょっと厄介な人なんだよ」
市長と聞いて、川井・良子の眉が少し上がる。
その市長の命令で、教頭に茂野・龍太の行動を観察するように指示されているのだ。
「厄介?」
「市長の言うことを聞いていれば特に何もないんだよ。でも、少しでも自分の意に沿わないと、まあ……いろんな意味で面倒なことになるんだよ」
「面倒なことって、何? パワハラ?」
「その辺りの線引きが難しくてね。怒鳴らないし、脅したりもしない。でも、気が付いたら市長の周囲にはイエスマンばかりになっている。市長に反抗的な態度を取った人たちは左遷なんかされないけど、上位職にご栄転という名目で、市長室から遠い配置につけられる」
「ふぅ~ん」
「要は、気が付いたら市長のやりたいように物事が進んでいるってわけ」
正直言って、市長が何を考えているかなど、市民には分からない。
選挙の時ぐらいしか、自分は市政をどうしたいとか、この街をどのように発展させたいかなど、市長が市民に向かって語ることはないのだ。
市政だよりのような広報紙がたまに部屋のポストに入っているが、まともに読んだこともない。
「そっか。その市長が何か言うたびに、市役所の人たちは仕事が増えるわけね」
「まあ、そういうこと。前の市長は大人しかった分、そのギャップがすごい」
正直言って、川井・良子は市長の祖父江・金五郎のことをあまりよく思っていない。
市長本人に直接会ったことはないし、どのような人物かもろくに知らないが、彼の息子の祖父江・卓斗のことはよく知っているからだ。
最近はかなり大人しくなったが、入学当初は二言目には自分は市長の息子だと言って威張り散らしていた。
それこそ、教師ですらパパの手下扱いだったのだ。
まともな親なら、子供をあそこまで増長させたりしない。きちんと躾をするはずなのに、彼の言動を聞く限り、家で選民思想教育を受けているようにしか考えられなかった。
彼が大人しくなったのは、残念なことに担任の教育の賜物ではない。
クラスメイトの一人の男子生徒、茂野・龍太には、彼の「パパは市長」攻撃が一切通用しなかったためだ。
英才教育を受けて育ち、同級生たちより性格以外は優れていた祖父江・卓斗だが、一般庶民の茂野・龍太には何をしても勝てなかった。
そして、とどめとなったのは、あの遠足で発生した森林公園での一件だ。
彼女は、不良たちに喧嘩を売って取り囲まれていた卓斗を助けるために身代わりになった。
さらにその後、龍太によって不良たちは追い払われたのだが。
さすがの卓斗も、自分の父親の権威が通じない不良の前では、ただの無力な小学1年生でしかなかった。
そして、権威の欠片もない龍太が、たった一人で不良たちを追い払ったことにより、完全敗北を悟ったのだ。
もし川井・良子のクラスに龍太がいなかったら、卓斗は今も手が付けられない我儘児童として、やりたい放題だっただろう。
ああっ、やっぱり茂野・龍太君って凄い、と彼氏の前だというのに、思わずウットリとしてしまう。
「最近は郊外の造成地の工事がかなり進んだんで、微妙な空気なんだよ」
そんな恋人に気付かず、吉田・茂がそう続ける。
「造成地……って、あの森林公園の近くの?」
我に返った川井・良子がそう言う。
「そう。実はあの事業って前の市長が言い出して、今は神崎議員が旗振りをしているんだよ。それで今頃になって、手柄のおこぼれにあずかろうとして、他の議員たちが色々動いているみたいなんだ」
「神崎議員って……」
もちろん彼女は知っている。
その議員の娘は先日、龍太に魚の名前が漢字で書かれたハンカチを見せてはしゃいでいた。
何か繋がったような気がしないでもない。
もしかしたら、市長は人気急上昇中の神崎議員を警戒して、娘のボーイフレンドの監視を教頭に命じた……。
さすがにこれは無理があるわね。もしそうしたいのなら、龍太ではなく、娘のあかりの方を監視させるはずだもの。
そもそも小学1年生の娘が何かしたからといって、父親にまで害が及ぶとは思えないし。
と、自分の考えを否定するが、実は当たらずも遠からずだった。
「何か、ひと悶着ありそうなんだよなぁ」
吉田・茂がそう言うと、視線を窓の外に向けた。
通行人の数が増えてきたような気がする。




